『ユリス』十二章

〈俺たち四人と一匹が向かったのは、審査員氏の邸宅だ。隣町とはいえ、ここはブラジル、飲まず食わずの丸二日を歩き続け、見渡す限りの荒野に巨大な太陽が沈没する頃、ようやく辿り着いたのは、ああ、ひどく寂れた町だった。〉

「なんだか、いやな予感がします」とハンスは呟いた。
「まあね」と塚本ヤスエは答えたなり、不機嫌に黙り込んだ。
 見晴しの良い川辺で、優しい風に髪の毛やら頬っぺたやらを撫でられており、背後では変化に富んだリズムのマレキアーレが演奏されていた。にもかかわらず、おぼろな憂鬱に満たされたハンスの胸は喘ぎ勝ちなのであった。

 なにしろ隣町は寂れているばかりでなく、審査員氏の邸宅などというものはどこにも見当たらなかった。氏は邸宅の主というよりは荒ら家の間借り人に過ぎず、その荒ら家の家主はといえば、店子がこの町の町長のような者であることを知らなかった。この町の住人の誰一人として、それを知る者はなかった。否、そもそも、この町の住人の誰一人として、エッチューリョ氏のことをよくは知らなかった。そしてまた、明るく屈託ないお喋りで道中を慰めてくれたジャロメッチ医師は、黒犬――ジョアンと名付けられた――を連れて復讐の町へと帰って行った。寂れた町の荒ら家に、ユリスとゲルハルトは取り残されてしまったのだ。

 〈だが、俺の胸には希望の炎が燃え盛っている。道中を慰めてくれた明るく屈託のないジャロメッチ医師のお喋りが、俺の胸に火を点じたのだ。医師は言った。
「ねえ、ゲルハルトさん、ウメチャーロさんのことを悪く思わないでくださいね。ひどく年老いて、起き上がることもできず、ひとりぼっちなのです。淋しいひとなのです。それでもあの方はぼくにとって、いや、もとい、あの町の半分の住人にとって、心の支えであり、なによりも大切なひとなのです」
 俺はうなずいた。毒殺されかけた人間としては寛大なうなずき方だったと自負している。が、無論、俺の胸に火を点じたのは、老婆を想う医師や住民の心情なんぞでない。ジャロメッチ医師はこうも言ったのだ。
「あなたの命を奪いかけた猛毒も、あなたの命を救った毒消しも、共にウメチャーロ家秘伝のものです。彼女のご先祖の誰かがツツカル族に遭遇したときに伝授されたものだと言われています、確かではありませんけどね」
「ツツカル族とは?」俺は当然、質問した。
「おや、ツツカル族をご存じない? このあたりではよく知られた伝説の部族です。伝説の、というくらいですから、じっさいにツツカル族を見たひとはいないのですが、孤高の部族であると言い伝えられています。何も持たず何も欲せずただ静かに生きているだけの清らかな裸んぼの人々であると、ね」
 ツツカル族! それこそまさしく俺たちの最終目的地だ! 欧州の憂鬱を身にまとい堅固な城で暮らすのも、確かに悪くない。だが! ツツカル族を捜し出し、伝説の裸族の族長とその妻として人知れず生きること、ああ、それこそ究極の孤高の暮らしなのだ!〉

「とてもいやな感じになってきました」と、ハンス。「それに、ユリスの気持ちはまるで無視されてます。ぼくが思うに、彼女はやっぱり、どちらかといえばヨーロッパのお城のほうが好みだと――」
「いまにはじまったこっちゃないさ」と塚本ヤスエが遮った。
「でも」
「でももへったくれもない!」
 塚本ヤスエの不機嫌は徐々に深まっているらしかった。
 一方、上機嫌のゲルハルトは心中の炎を審査員氏にぶちまけた。

「なんですと! ツツカル族を捜しに行くんですと?」と、はじめのうちこそ眉をひそめた審査員氏、ゲルハルトを上回る上機嫌で言った。「そんならそれ相応の準備が要りやすな。この乾季に荒野を旅するつもりなら、てぶらじゃいけません、てぶらじゃ」さらに昂揚し、「準備のことは一切、あたしがやったげましょう! そのあいだにあんたたちはゆっくり体を休めておくがよろしい。申し遅れたが、あたしの名はエッチューリョでやす」
 やはり少し拗ねていたのだろう、ユリスが膨れっ面で抗議した。「でもあなたは以前、小舟を降りるとき、名前も職業もないも同然だとおっしゃったじゃありませんか」
「あんときはね、そうでしたよユリスさん、でも今はとりあえずエッチューリョでやしてな、この町の町長のような者であり、口入れ屋のような者でもありやす」
 〈そしてある朝、エッチューリョ氏は自信たっぷりにこう言うだろう。
「おおかたの準備は整いやしたよ」
 俺はおまえの手を取って、エッチューリョ氏の案内に従う。永遠に居眠りをしているような哀しい町を、しばらく三人は歩くのだ。
 寂れた広場に到着すると、エッチューリョ氏は再び自信たっぷりにこう言うだろう。
「どうですね? なかなかなもんでやしょ?」
 広場には俺たちのために用意された家畜と人夫が集まっている。だが、ああ、なんと哀しいことだろう、家畜も人も、まだ出発もしないうちから疲れ果てているではないか。〉

 ああ、ああ、とハンスは呻いた。
 塚本ヤスエは絶え間なく貧乏揺すりをしており、レース編みの日傘の先ででグサグサ地面を突き刺してばかりいた。リズムもへったくれもないその動きに、背後のナポリタン・カルテットも脅かされて、軽快であるべきマレキアーレは重く、途切れがちだった。尾花があきらめて片手を上げ、歌と演奏が止んだ。
 音のない隙間に、邪険な風がひゅうと吹いた。
「この先とうぶん、いいことはないよ」塚本ヤスエが呟いた。
「つらいんですか?」
「つらいね」

 〈エッチューリョ氏はパンパン手を叩いて広場の連中を立ち上がらせる。家畜も人夫どもも立ち上がるには立ち上がったが、てんでんばらばらの方を向いており、エッチューリョ氏に注目しているものは誰一人いないのだが、エッチューリョ氏はまったく気にも止めず、連中を仔細に眺め渡してから、満足げにこう言うのだ。
「これだけの備えをしておけば、しばらくは持ちこたえることができやしょう。なにしろ乾季の荒野ともなると、食料になるものは何もなく、狩りの獲物もいやしませんのでな。騾馬は玉蜀黍を食べないと歩く元気が出ませんのでな、やつらの玉蜀黍を運ぶためには牛がこれだけ必要でしてな。牛はその辺にあるものを、堅い草でも木の根でも何でも食べて済ませられるんで、その点は便利な生きものですが、牛追い人の言うことしか聞きませんのでな、つまり、牛追い人がこれだけの人数必要なわけでして。いやはや」
 疲れ果て痩せ衰えた十七頭の騾馬は、俺たちふたりと十五人の人夫どもを乗せるため。 疲れ果てこれ以上一歩も動くことが出来ないような三十七頭の牛は、騾馬どもが食う玉蜀黍と人間どもの食料と、それに野営用の荷物を運ばせるため。
 疲れ果て全くやる気のなさそうな十五人の人夫のうち十人は牛を歩かせるための牛追い人であり、残りの五人は料理係と雑用係なのだ。
 だが、俺たちは、この連中を連れて旅立たねばならぬ。
 人夫のひとりが俺に近づき、
「ねえ旦那、金は払ってくれるんでしょうね。金は一切合財あんたに貰うようにと、あの爺さんに言われてるんでね」
 と、エッチューリョ氏を無遠慮に指差した。エッチューリョ氏は慌てて家畜どもの中に分け入って、騾馬の頭を撫でたり牛の脂肪の付き具合を――どの牛にも脂肪などまるでなく、痛々しく肋骨が浮き出ていたのに――調べたりしていた。
「あの爺さんが何処の誰だか知らねえが、おれたちは皆、旦那に雇われたんだからね」
 勿論、俺は金は払うと約束した。すると人夫は、前金で願いたい、と言った。なぜなら騾馬の代金も牛の代金もまだびた一文払われていないし、玉蜀黍の代金も、野営用の備品の借り賃もまだであり、牛追い人の中には借金のある者もいて、それをさっぱりさせないことには出発できないと言うのだ。借金のある者が何名いるのか、と俺は訊いた。
「そうだな、おれを含めて十四、五人ってとこかな」と、人夫は言った。つまり、全員が借金持ちなのであった。
 この屑どもの為に、俺は有金すべてを使い果したのだ。
 翌日、借金をさっぱりさせて再び集合した人夫どもが、やる気満々であったかといえば、そうでない。連中は借金を払った残りの金で夜通し呑んだくれていたために、余計にやる気を失っていた。おまけに牛どもは荷を積まれるのを嫌がって暴れ、騾馬どもと来たら隙あらば逃げ出そうと、虎視眈眈と狙っている始末だ。
 すったもんだの末にようやくすべての準備が整い、いざ出発というその時に、例のレペンチスタがやってきて、聴衆――人夫と家畜どもも含めて、だ――に一礼すると、いきなり歌い出した。


    ジャロメッチ先生から、伝言です。
     「黒犬のジョアンはとても元気になりました。
     もちろん、ぼくも元気です。
     町の人々も皆、元気です。
     陽気で明るく親切で、
     ふだんの町に戻っています。
     そうそう、これを忘れちゃいけませんね、
     今年の祭りは引き分けとなりました。
     トロフィーはスタジアムの控え室に、
     厳重に保管されることになりました。
     ふたつの家の山車工房では、すでに、
     来年の山車の製作がはじまっています。
     来年はもっとぴったりの主人公を探さねば、と、
     両家ともスカウトの人数を増やしました。
     では、いってらっしゃい。
     お元気で!」
    ヅカピーリのお二人から、ゲルハルトさんに伝言です。
     「先日は大変にお疲れ様。
     多少の不始末はあったけど、
     祭りは無事に終わったよ。
     では、いってらっしゃい。
     元気でね!」
    ウメチャーロさんからは、ユリスさんに伝言です。
     「今度近くへ来たときは、
     寄っておくれ、かならずね」
    最後に、わたし自身のお願いです。
     「どうか一緒に連れてって!」


 エッチューリョ氏が慌てて遮った。
「駄目駄目! とんでもありやせんよ! 駄目です、あんたを乗せる騾馬はいない! あたしは、この辺りの騾馬という騾馬をぜーんぶ掻き集めて、やっとこれだけの騾馬を揃えたのですぞ。この町から三百キロ四方には、もはや一頭の騾馬も存在しやせん。それに、あんたは、御自分の町で、やり残したことがおありでやしょ?」
 レペンチスタはうな垂れ、とぼとぼと引き返して行くのだ。
「レペンチスタさんが御自分の町でやり残したことって、なあに?」
 と、おまえは訊ねるだろう。
「いやはや、ユリスさん、あの御仁は志高く、優しい気持ちをお持ちでしてな。あの町は御存じのとおり復讐の町。あの御仁はそのことで大変に心を痛めておいでなのです。際限のない復讐劇に終止符を打ち、平和な町にしたいというのがあの御仁の立派な志なのでやすよ」
 荒野をゆくレペンチスタの小さな後ろ姿に、おまえはそっと手を振るだろう。
 俺もエッチューリョ氏も、おまえと並んで手を振るだろう。
 度し難い人夫どもと家畜どもも、この時ばかりは行儀良く居並び、揃って手を振ることだろう。〉

「ぼく、ちょっと気になることがあるんですけど」と、ハンスが言った。
「わかってるよ」すかさず塚本ヤスエが答えた。「騾馬と牛が手を振るってのは納得いかないって言いたいんだろ? ふん、あんたの気にしそうなこったよ、くだらない」
「だってあんまり――」
 強烈な平手打ちが飛んだ。
「黙れハン公!」塚本ヤスエが叫んだ。「だってもへったくれもない! そんなくだらないことを気にしてる場合じゃないんだ!」
 蜻蜒淵がマンドリンを取り落としかけ、当然、音は止まった。残る三人も情けなく演奏を止めた。
 塚本ヤスエが振り返り、やおら立ち上がると四人に向かって走った。
 四人は無意識に身を寄せ合った。
 塚本ヤスエがグイと手を伸ばして、蜻蜒淵のポニーテイルを引っ掴み、低く、押しつけるような声で言った。
「蜻蜒淵なぜやめる? やるんだったらちゃんとやんな。しっかりやんな」
 ハンスは、じんじん脈打つ頬っぺたに手を当てて、茫然としていた。
 音楽が再開された。今度は空元気で。
 塚本ヤスエは忙しく木箱のベンチへ駆け戻り、両手でハンスの顔を挟んで覗き込んだ。「しっかりしなハン公。しっかりしたかハン公。しっかりしたなハン公」と、言った。それで、ハンスはしっかりした。
「よし! いくぞ!」塚本ヤスエが叫んだ。
 苦難の旅に出発だった。

 〈そうして、俺たちは本当に旅立つのだ。
 数だけは大層なキャラバンを率いて俺たちは乾季の荒野をゆくのだ。
 ツツカルの村へ。〉


 それからの数日、午後から夕暮れまで、ふたりとカルテットは奇妙な一体感に結ばれて不毛の荒野を旅したのだ。

 〈大地はひび割れ、植物は枯れて色褪せ、野火に焼き尽くされた場所では黒焦げの木々が不気味な姿で立っている。
 エッチューリョ氏の言ったことは正しかった。草地と呼べるものはなく、狩りをしようにも獲物となるべき動物も見当らない荒涼とした土地を、俺たちは何日も何週間も歩き続けなければならないのだ。〉

 ハンスはたった一日読んだだけで疲れ果て、ベンチ代わりの木箱を一つ追加してもらい、横たわって読なければならないほどだった。それでも粘り強く読み進み、苦情も泣き言も言わなかった。

 カルテットの面々は、詳しい事情も知らぬまま、とりあえず《太陽の土地》をやっていた。虎松はなぜかかすれ声で歌っていた。ここは太陽の土地、ここは海が見える素敵な場所、ここではすべての言葉が甘く、切なく、愛を語る、などと歌ってはいたが、希望に満ちた《太陽の土地》の感じも出せず、愛だの恋だのの甘ったるさも少しも出せずにいた。けれども、決してやめようとはしなかった。

 塚本ヤスエひとり、大忙しで木陰のベンチとカルテットの間を往復した。励まし、殴り、強烈なお茶を振る舞い、また殴った。殴るのはもちろん、激励の行為なのであった。

 〈出発して三日と経たぬうち、三頭の牛が死んだ。死んだ牛の積み荷は他の牛に背負わせなくてはならなかった。負担を増やされた牛たちは、いつまで持ちこたえることができるだろう。
 一人の牛追い人と一人の雑用係が、騾馬もろとも逃げ出した。はじめからそのつもりだったに違いない。俺たちのキャラバンは、早晩、半分以下に減ってしまうだろう。〉

 影響を受けやすいハンスは、肋骨の浮き出た牛よりも、やる気のない人夫たちよりも疲れ果て、日が暮れて斜面の家に帰っても食は進まず、蛇の目氏の弁当を食べ残すほどに消耗していった。

 〈俺たちの旅は遅々として進まず、どうかすると何キロも何十キロも後戻りすることもあった。出発して三週間も経った頃、俺ははじめて気づいたのだ、俺たちのキャラバンを指揮しているのは、実は俺ではなく、勿論おまえでもなく、牛追い人でもないことに。
 俺たちのキャラバンを指揮しているのは牛どもなのだ。一日に歩ける距離は二十キロがいいところだったが、一週間も歩かせると数日は家畜を休ませる必要があった。そうしないと牛どもは突然倒れて死んでしまうか、あるいは数か月休ませないと回復しないほどに疲労してしまうのだ。牛追い人たちは、だから、貴婦人に仕える小間使いの繊細さで牛に仕えなければならないのだ。
 休ませている間に家畜どもは勝手気ままに歩いて、どうかすると来た道をどんどん戻ってしまうのだ。だからといって無理遣り引き戻すような手荒な真似はできず、牛追い人たちは牛と一緒にどこまでも戻ってしまうのだった。
 そして、俺たちが野営をすると、熱帯の虫たちが待ち構えていたように襲撃してくる。群れを成して飛ぶ吸血の羽虫たちを追い払う術はない。やがて、追い払う気力も失い、血を吸うにまかせているうちに、さらに体力はすり減ってゆくのだ。〉

 ハンスはだらしなく寝そべって、だらしなく涙を流し、読んでいた。
 蜻蜒淵もなぜか、時々泣いた。
 塚本ヤスエは日に十五回は蜻蜒淵のポニーテイルを引っ張る必要があった。そうしないと、涙でマンドリンの音が滞るのだった。
 音楽もなしで荒れ果てた大地を歩いてゆくなど、堪え難かった。それは、塚本ヤスエに限らず、全員が同じ気持ちだった。
 局長は制服の釦をすべて外し、喘ぎながらアコーディオンを弾いていた。少しも小粋でなくなっていた。

 〈朝起きて、まず目にするのは牛の死骸だ。なんと悲しく寂しいことだろう。野営をするたびに牛が死ぬのだ。人夫の数も一人か二人は減っている、もちろん騾馬もろともに。
 こうして、いつの間にか、俺とおまえのふたりきりになってしまうのだ。
 俺たちは、騾馬もなく牛も連れず、食料すら持たずに自分の足で歩いてゆかねばならぬ。一歩、また一歩と、まるで死にゆく者のごとく――
 そしてある日のこと、俺たちを呼ぶ声が聞こえる。
 おお、あれはレペンチスタではないか? 大きな荷物を背に負い、小さな荷物を胸に抱き、叫び、転げるように走ってくる。大きな荷物には食料がいっぱいに詰まっているに違いない! 俺たちは眼を血走らせ、レペンチスタに向かって走るのだ。
 しかし、やつの荷物に手を伸ばす前に、おまえはこう尋ねずにはいられない。
「レペンチスタさん、あなた、どうやって? どうやって、ここまで来られたの、騾馬も、牛も、人夫もなしで?」


  もちろん、歩いて来たのです、
  ときどき、走ったりもしてね。


 おまえは戸惑い、飢餓も忘れて、さらにこう尋ねるに違いない。
「でも、つまり、えーと、あたしたちを追いかけて来たってことは、あなたは何かを成し遂げてきたのね?」


  もちろんですとも、ユリスさん
  わたしは、ついに、成し遂げた!


「ってことは、つまり、御自分の町をとうとう平和な町に変えたのね? あの際限なき復讐を終わらせたのね?」


  復讐を終わらせるですって? とんでもない!
  心の奥底に復讐を住まわせていればこそ、あの町のひとびとは、
  普段はあのように、陽気で親切でいられるのです。
  復讐を終わらせるですって? なんてことを!
  復讐の情熱を失えば、あの町はただ貧しいだけの町、
  ひとびとは暗く打ち沈み、生きる気力もなくすでしょう。


 おまえは夢中で訊くことだろう。
「じゃ、あなたがずっと願っていたことは、なんだったの? あなたが御自分の町で成し遂げたのは、どんなこと?」
 それには答えず、レペンチスタは歌うのだ。


  ジャロメッチ先生から伝言です。
   「黒犬のジョアンが、ある日突然、
   いなくなってしまいました。
   どこへ行ってしまったんでしょう。
   ぼくは心配でたまりません。
   それはともかく、どうか元気で、
   楽しい旅を!」
  ヅカピーリのお二人から、ゲルハルトさんに伝言です。
   「素晴らしい山車が出来そうだよ。
   来年は絶対負けないね。
   それはともかく、良い旅を!」
  ウメチャーロさんからは、ユリスさんに伝言です。
   「来年は山車そのものが殺人機械さ。
   すごいだろ? いい考えだろ?
   来年は見物に来ておくれ。
   それはともかく、元気でね!」
  エッチューリョさんからも伝言があります。
   「レペンチスタ殿は宿願を果たされやした!
   四幕からなる壮大美麗な詩劇をば、
   たったひとりで何から何まで、
   ものの見事に演じ切り、
   ついでにお客もたった一人という徹底ぶり。
   そのお客とは、もちろんこのあたし。
   そりゃもう反動的に冗漫な、あいや、
   感動的に冗談な、いやなに、
   とにかく芸術的な四幕物でやしたよ!
   平和な町にするなどと、
   いやはや、わたしの早とちり。
   お詫びの気持ちも込めやして、
   干し肉三キロに缶詰少々、
   隠元豆も、持たせてやります。
   代金は、戻られてからで結構。
   ところで、あたしは来年も審査員でやす。
   では、楽しい旅を! あはーん!」
  最後にわたしのお願いです。
   「どうか、一緒に連れてって!」


 今度は反対する者がなかったので、レペンチスタは道連れとなったのだ。〉

 越中氏は、相変わらず、西陽の真っ只中で焦げついていた。

 《越中探偵事務所》には誰も訪ねて来なかったし、これといって出かける用事もなかったから、誰にも会わずにただ傷だらけの机に向かい、腰かけて過ごしていた。

 越中氏は、そもそも探偵ではなかった。

 長い放浪生活に飽きがきて住み処を定めようとした時、たまたま見つけたのがここだった。三年前の事だった、あるいは五年前だったか……だが、そんなことはどうでもよかった。どのみち誰も訪ねては来なかったし、越中氏が探偵の仕事をしたことはなかったのだから。

 ドアには、はじめから《越中探偵事務所》と書かれてあった。見知らぬ越中氏なる人物が営んでいた探偵事務所を、見知らぬ越中氏が使用していた机と椅子、見知らぬ越中氏が悩まされていたであろう西陽ともども引き継いで、居座ったに過ぎない。

 越中氏は、だから、本当は越中氏ですらなかった。ドアに書かれていた越中という姓に、行太郎――これは本当の名前だった――をくっつけて越中行太郎と名乗ったのも、これといって理由があったわけではなく、ドアの文字を直すのが面倒だったからに過ぎない。

 いったい、わたしの人生とはどういうものであったのか? 七十年と少しの間の出来事を振り返ってみようとしたが、ぞっとして止めてしまった。あまりに散漫な人生であることがすぐに判明してしまったのだ。
 こうしてひとりで座っている時でも、上体を真っ直ぐに立て、長い首をきちんと伸ばし、小さい丸い眼はいっぱいに瞠いて、じっとしていた。だが、頭の中は嵐だった。焦燥と不機嫌と、暢気と失意と上機嫌とが入り乱れ、めまぐるしく交替して吹き荒れており、全体としてはかなり険悪な気分だった。
 散漫な人生、それも結構。と、声に出して呟いてみた。余計に険悪な気分が増してしまった。
 もう数週間も、こうして嵐を抱え込んで過ごしていた。
 原因は知れていた。あの、ハンスとかいう青年に会ってしまったからなのだ。
 事の発端はずっと――二十年かそこら――以前のことだった。

 放浪生活の最中に妙な男に遭遇した。ゲルハルト・パンネンシュティールと名乗り、薄笑いを浮かべて、訊きもしないことを唐突に喋り出したのだ。俺が使っているハンスという名の子供がいるんだがね、俺の財産はその子供にすべて譲ることにしたのだ、と。だから、当然の質問をした。あんたの財産て何があるの? すると、こう答えた。家と土地とガラクタが少しと、二階には年老いた母親がいるが、それは財産とはいえない、なぜなら人間が人間を所有することは出来ないからだ。冗談にもならないことを言って指差したあたりに、遠く、陰鬱な黒雲を戴いた二階家が見えた。もっとよく見ようと眼を凝らしているうちに、なぜかわざとらしい高笑いを残してゲルハルト・パンネンシュティールは去っていった。

 そこは、桃の里とかいう集落に程近い、寂しい峠道だった。場所も場所なら時刻も夕暮れ、いわゆる逢魔が時とかいう頃合でもあったから、あれは魔であったかとけりをつけ、しばらくは忘れて暮らしていたが、現在の事務所に落ち着いた時ふと思いついて「住所変更、並びに、新事務所開設のお知らせ」というものを出してみた。それというのも、そんな知らせなど出す宛ては他になく、少しばかり浮かれてもいたものだから、つい出してみる気になったのだ。無論、「新事務所開設祝い」など届かなかったし返事も来なかったのだが。

 そうして、本当にすっかり忘れていたのに、三週間前、突然、訃報が届いたのだ。

 寂しい財布から片道分の運賃をひねり出し、ハンスという名の子供――当然もう大人になってはいたが――に呼び出し状を出す気になるとは、我ながら奇妙であった。
 ハンスという名の青年は、驚いたことに、本当にやって来た。そして、苛立ちが始まったのだった。
 見窄らしく、鈍臭く、挨拶はおろか自分の名前すらまともに言えないような子供じみた青年だった。西陽の当らない隅の椅子を与えてやり、優しい声音で語りかけてやったというのに、感謝の気持ちをその眼差しに籠める事さえ出来ないような、まったく神経に障る青年だった。にもかかわらず、用件はきちんと判りやすく言ってやったつもりだ。故ゲルハルト・パンネンシュティール氏が所有しておられたものは、すべてあんたのものになりやした、と。
 青年は薄暗がりから熱心にこっちを見つめていたのに何の反応もしなかった。だから、もう一度丁寧に言ってやった。
「故ゲルハルト・パンネンシュティール氏が所有しておられたものはすべて、家屋も土地も、石ころもペンペン草も――もし、そんなものを屋根の上に生やかしているのなら――とにかく、全部あんたのものになりやした」
 それでも、反応なし。
「故ゲルハルト・パンネンシュティール氏が所有しておられたものはすべてあんたの――おっと、御母堂は違いやすよ。あたしはあの家に行ったことはござんせんが、御母堂、確か二階にお住まいでしょ、御母堂。それ、人間でやすからね、人間を人間が所有することはできやせんよ。あはーん」
 冗談めかして言ってやったつもりだったが、相変わらず反応なし。
 苛立ちは我慢の限界にきていた。
 折悪しく、カーテンのない窓から左半身を直撃していた西陽の威力が最高潮に達したために、暑いのを通り超して理不尽にも丸焼きにされる鶏の心境に近くなり、当然、苛立ちは怒りに転じた。尻の辺りで発生した黒焦げの怒りが、直線的な上半身をまっしぐらに昇り詰めて、引き結んだ薄い唇を破って飛び出そうとした刹那、
「本も?」
 と、薄暗がりから小声の質問が発しられた。
 一瞬出口を塞がれた怒りは、無謀にも質問に答えようとして、無意味な絶叫となった。「本も! 本も! 本も! 本も! 本も! 本も!」
 それからのおよそ十分間、半ば意識朦朧として自分が何を叫び、薄暗がりの青年がどんなふうであったか、まるで覚えていなかった。
 だが、ふと我に返ってみると、青年は柔らかな熱意をこめて喋っていたのだ。
 ―――あるのです、たくさん―――ロブスターのレリーフの扉―――古い本ばかりですけれど―――厳しく禁止されて―――でも、ぼくには本だけが―――華やかな冒険や―――重厚な人生や―――悲劇的な恋も―――荒唐無稽な物語も―――どれもがすべてぼくの―――書庫という小さな世界で―――ですから本が―――なにより本が―――本こそすべて―――でも―――でも―――
 それがどうしたというのだ? 越中氏は零下三十度の眼差しで青年を凝視した。本がなんだというのだ?
 だが、辛辣さなどおくびにも出さず、「でも、でも」と口籠っている青年に、比類なき優しさでこう言ってやったのだ。
「もちろん、本もです。全部あんたのものでやすよ」
 すると青年は、ふと顔を上げ、
「でも、ぼくは、ほんとうに本を、所有したいと思っているのでしょうか?」
 と、言ったのだ。
 まったく、救いがたい大間抜けだった。


 越中氏はぎくしゃくと立ち上がった。
 あの日と同じほど強烈な西陽が、その全身を焼き焦がし、あたかも光芒をまとった神のごときものに見せていた。
 越中氏の――散漫ではあっても――よく使い込まれた人生は、どうした気の迷いか急速に方向転換をし、思いもしない方向へ漂い流れはじめたのだった。

 〈昼は暑く、夜は凍えた。
 一度は諦めた命の火が、わずかな食料のために再び燃え上がったが、それも尽きた時、飢餓感は以前に倍する熾烈さで俺たちを責め苛んだ。
 エッチューリョ氏がレペンチスタに持たせた食料は本当にわずかなものだったのだ。伝言にあった干し肉三キロ、隠元豆三キロは誇大表現であり、実際は三分の一にも満たなかったし、缶詰少々に至っては小さなグリーピース缶がたったの一個という有様だった。レペンチスタが胸に抱いていた小さな荷物は、瞬く間に空になったのだ。
 俺たちに合流するまでにレペンチスタが食料に手をつけていなかったこと、あるいは出し惜しみや隠匿をしていないことを、俺は信じる。レペンチスタは何事にも慎ましく正直な男なのだ。それなら、しかし、ああ! だとすれば、いったい、食料が尽きた今もばかに大きな荷物の中身は何なのか? 俺たちは訊かずにはいられない。
 そうして、大きく膨らんだ麻袋から取り出され、ひび割れた地面におずおずと並べられていった物たちを眺め、俺たちは唖然とするほかはない。
 金色の紙で作った王冠、玩具の剣、ちゃちな付け髭、鍋の蓋を細工した盾、厚紙の甲冑、ぺらぺらの布地で作った旗、同じくぺらぺらの布地で作った垂れ幕、その他それに類する物多数……
「どうか、許してください、これらの品々を。どうか、笑わないでください、これらの品々を。念願叶って完成したわたしの四幕詩劇を演ずるのに必要な品々なのです。わたしはツツカルに芸術を教えたい。ツツカルに音楽を、踊りを、そして物語を! あなたがたとともにゆけばツツカルの村へゆくことができる、そう思ってここまで来ました。けれど、けれど、わたしはツツカルにまみえることができるのでしょうか」
 レペンチスタは、力尽きたのか、そのまま倒れ伏した。汚れでこわばったその頬に一筋の涙が流れた。命の最後の煌めきであるかのごときその一滴の水分を、ひび割れた大地が無情に吸い込んだ。
 無慈悲な太陽が地平線のきわまで降りて来て、歪み、ひしゃげて、さらには水平に分裂しながら痙攣した。邪な血の色をした光の束が、地面に散らばった物たちを捉え、束の間それらが本物に見えたことを、レペンチスタは知らない。王冠は重厚に、剣は切っ先鋭く、甲冑は黒ずんで堅牢に、旗と垂れ幕は流血の歴史を語り、ちゃちなつけ髭でさえ気高い人格を帯びて見えたのだ。そうしてレペンチスタその人も悲劇の登場人物、本物の吟遊詩人の屍に見えたのだったが――
 そのあと闇が、すべての幻影を呑み込み、夢さえ掻き消すほどの暗さと静寂。ああ、そしてなお悲しいことに、おまえの声が――錆びた針のごときおまえの声が――俺の心臓を刺し貫くのだ。
「どうしてこれほど苦しいの、あたし? なぜこんなにもつらい旅を続けているの、あたしたち? ツツカル族に出会うことが、命と引き替えにするほどの値打ちがあるとでもいうの、あなた?」
 おまえの声は次第に弱々しい囁きとなり、やがては闇の大地に消えるのだ。ああ! 俺たちの愛はまるで死に絶えたかのごとく、凍えた静寂にとってかわられる。
 ひとり残された俺は暗黒の中の微小な点にでもなった心持ちだ。俺は点に過ぎぬのか? 暗闇は俺の存在そのものを脅かすのか? だが、俺が「点」ならば、俺は「存在する」と言い得るだろうか? 「点」は座標に過ぎず、「存在する」ものではない。では、俺は存在すらしないというのか? 存在しない俺がこうして考えているのというのはいったいどういうわけか? それなら俺は、全存在ではないのか? 俺は、無限の闇に偏在する創造神ではあるまいか? 
 そこで、ふいに閃いたのだ。
 神は究極の選択を迫るもの。それは、生か死か。
 さあ、選ぶのだ、このまま眠るように死ぬか? それとも、死ぬより残酷な生か?
 かつて、ハワイかタヒチかも選ばず、二つの城も選ばなかったおまえは、しかし、この究極の選択を免れることはできない。
 返事を! 返事を、使いの子供に!〉

 長い沈黙の後、ハンスが呟いた。
「良かった……これで……これで楽になる……」
「なんで?」と、塚本ヤスエ。
「だって……結局あなたはどちらも選ばないのだし……死ぬより残酷な生など選ばないのだし……選ばなくても間もなく死ぬのでしょうし……」
「どっこい、あたしゃ生きてるもんね」塚本ヤスエはぺろりと舌を出した。それから、相変わらず木箱のベンチに寝そべってぐったりしているハンスの顔を覗き込んだ。
「それよりさハン公、おかしいと思わないか? ゲル親爺のやつ、あんたのこと使いの子供だってさ。この手紙をうちへ届けに来た頃、あんたはもう子供じゃなかったんだよ」
 ハンスはぼんやり眼を開けて塚本ヤスエの顔を見上げたが、何の感想も抱かなかった。思考も感覚も半ば痺れており、機能していなかった。
 塚本ヤスエは笑った。「ゲル親爺のやつ、あんたのことをずっと子供だと思ったまま死んだんだ。おかしいだろ? おかしいよ」なおも声をあげて笑った。
 どこか空虚な笑い声は、目の前の川面に拡がってゆき、眠ったような午後の空気を振動させた。ほかに音はなかった。なぜなら、音楽は途絶えていたからだ。
 ふたりの背後では、ナポリタン・カルテットが途方に暮れて立っていた。虎松は半分だけ口を開けて悲しげに突っ立っていた。局長の両腕はだらりと垂れ下り、肩からずり落ちかけているアコーディオンのストラップを直そうともしなかった。蜻蜒淵は叱られた子供みたいに俯いて自分の足を見つめているばかり。尾花は、いなかった。
 遥か遠く、長すぎる手足をばたつかせて走ってゆく尾花の小さな姿があったが、それも、もう、見えなくなりつつあった。
 先刻、「おれ、ちょっと、集会所に行ってくるね」と囁いて、唐突に行ってしまったのだ。残された三人は途方に暮れるほかなかった。尾花なしで音楽したことはなかったからだ。尾花の平凡なギターなしで、どうやって音楽すればいいのか、知らなかったのだ。

 赤い軽四輪が目茶苦茶に走り回っていた。目的地はないにひとしく、行っては戻り、前触れもなく左折し、気紛れに右折した。

 運転しているのは沙汰砂子であった。助手席には沙汰達人が、シートベルトをきつく絞めて、緊張していた。妻・砂子にしてはずいぶん乱暴な運転だった。模範的な、どちらかといえば生真面目すぎるほどの運転ぶりだったのだが。

 沙汰砂子は桃の里集会所に現われた日以来、毎日ほぼ決まった時間に沙汰達人を迎えに来るのだった。妻・砂子を失望させないために、いやそれにもまして妻・砂子に会いたい一心で、沙汰達人は集会所の小さい方の会議室で待つようになった。そうして、ふたりは夕方ちかくまで狂乱のドライブをするのだった。

 どこへ行くのかと訊けば、決まって呆れたような顔をして、まるっちょを探すのよ、と答えた。だから、今日は質問の仕方を変えてみた。
「ねえ砂子さん。まるっちょってなに?」
「まるっちょはまるっちょでしょ。それよりあんた、スナコさんてだれ?」
 じゃあこの人は妻・砂子ではないのか。だとすれば誰なんだろう。いや、このひとが誰かなんて問題じゃない。沙汰達人は微笑んだ。古い恋を取り戻し、同時に新しい恋に胸弾ませて、少年みたいに微笑んだ。
 かつて妻・砂子であったところの新しい恋人は、とても充実した日々を過ごしているらしかった。快活で行動的なことに関しては、かつて妻・砂子であった頃を凌駕し、勇気に満ち溢れ、頼もしくさえ感じた。それならそれでいいではないかと、沙汰達人は思った。以前と同じように赤い軽四輪の助手席に自分を乗せて運転しているのだし、家に帰らないことや、夕方ちかくなると「じゃあね」と塚本の家に行ってしまうことさえ気にしなければ、以前よりずっと濃密な時間を共有しているではないか。沙汰達人は無性に楽しかった。


 尾花は一気に階段を駆け上がった。小さい方の会議室の前ではじめて立ち止まり、息を整えた。冷たいドアノブに、細長く繊細な指をかけ、カチリと回した。今日は、しかし、細く開けたドアから覗いたりはせず、大きくゆっくり開けた。

 誰もいなかった。一箇所だけ開いた窓から優しい風が吹き込み、薄物の白いカーテンを あおっていた。コの字型に並べられたテーブルの一つの角のあたりに、大きな急須と湯呑みが一つ置かれてあった。尾花は忍び足で近づき、急須の蓋を取って見た。お茶が半分ほど入ったままであった。湯呑みには飲みかけのお茶が三分の一。

 尾花はテーブルの端にちかいパイプ椅子に腰かけた。ドアは開いたままにしておいた。 待つこと三十分、軽く弾む足音が階段を駆け上がって来た。
「やあ、尾花さん」と、軽いステップを踏んで、沙汰達人が言った。
「どうしてもあんたに聞いてもらいたいことがあってね……待っていたんだ」
「いいよ」気持ちの良い風みたいな爽やかさでテーブルを回り込み、湯呑みにお茶を注ぎ足して一息で飲み干した。狂乱のドライブはとても楽しくて喉が渇くのだった。「で、話って、なに?」
「うん……」尾花は言い澱んだ。自信に満ちた沙汰達人の爽やかさが眩しく、己が心の内が暗く醜くさえ思えたのだった。けれども勇気をふるって話しはじめた。「沙汰さん、あんた、この会議室で、自分の音楽のことを考えるって言ってたよね?」
「うん、言ったね」
「それで、考えはまとまったかい?」
「うん、まあね」と、これは嘘だった。悩める友をがっかりさせたくはなかったのだ。
「あんた、おれたちの音楽を嫌いじゃないって言ったよね? おれたちはナポリ民謡なんかを、おもにやってるんだけど」
「うん。すごくいい感じだと思うよ」これはまったくの嘘ではなかったが、それほど注意深く聴いたことはなかった。
「おれの見たところじゃ、沙汰さんは、たぶん、ギターがよく似合うと思うんだよ」
「ふうん。そう? あんたにそう言われるとそんな気もしてくるね」これは嘘だった。中学生の時、さんざんねだって買ってもらったギターを三日で放り出したのだ。
「あんたに頼みがあるんだ……言いにくいんだけど、ナポリタン・カルテットで……あ。おれたちナポリタン・カルテットって名前なんだけど、あんたにギターやってもらいたいんだ」
「ギターなら尾花さんがやってるじゃない」
「おれは駄目なんだ。おれのギターはつまらないんだよ。だけど、あの三人はみんな冴えてる。みんな凄いんだ。悲しいことに、おれにはそれが判るんだ。ギターはね、すごく大事なパートなんだよ沙汰さん。おれのギターが駄目なせいで、あの三人は冴えた音楽ができずにいるんだ。とても残念なんだよ沙汰さん」
「オーケー、わかった」と、沙汰達人は立ち上がった。壁に寄せあったホワイトボードをきびきびとした動作で引き寄せ、青いマジックインキで大きく〔ギター〕と書いた。それから立て続けに〔ヴォーカル〕〔マンドリン〕〔アコーディオン〕と書いた。まるで詐欺師か手品師のような鮮やかな手際だった。
「これで間違いない? 間違いないね。ところで、あんたはギターがとても大事なパートだと言う」と、赤いマジックインキで勢いよく〔ギター〕を円く囲んだ。「では、尾花さん、ギターほど大事ではないパートはどれ?」

 尾花は苦悶した。大事でないパートなどひとつもないのだ。
 いつの間に取り出したのか、沙汰達人は銀色に輝くポインターの先端で〔ヴォーカル〕をパシパシ叩いた。「これ?」
 尾花は激しくかぶりを振った。
「そう。これは大事なパートなんだね」と、沙汰達人は〔ヴォーカル〕を赤い円で囲んだ。それから順次〔マンドリン〕〔アコーディオン〕を指し示し、尾花がかぶりを振るごとに赤い円で囲んでいった。
「さあ、これで、この四つのパートは重要さにおいてまったく同等ということが判ったね? にもかかわらず、ギターを担当する尾花さんが抜けると言い出した」と、残酷にも〔ギター〕を一拭きで消し去った。
 あまりのことに、尾花は小さな悲鳴をあげた。「そうじゃない。ただ抜けるんじゃないよ。おれのかわりにあんたが入るんだよ」
「そう。そうだったそうだった。おれが入るんだ。でもね尾花さん、おれはギターなんか触ったこともないんだよ」これはもちろん嘘だった。三日坊主とはいえ音を出すくらいのことは出来たのだから。しかしながら平然と言った。「したがって、ここにギターと書き入れることはできないわけだ」と、小さく〔沙汰〕と書いた。
「教えるよ」尾花は懇願する口調で言った。「ギター、教えるよ。教えるのは上手いと思うんだ、おれは」
「うん。そうしてもらおう。でもね、すぐに弾けるようになるわけじゃないよね。ところで、あんたが抜けたあと、この三人はあんたなしで音楽が出来るかい?」
「……わからない……やったことがないから、わからない」
「ってことは、出来ないんだね?」
「……わからない……やったことないから……」
「やったことないことは出来ないんだよ!」沙汰達人はピシャリと決めつけた。そうしておいて柔らかな声で囁いた。「音楽が出来ない三人と、ギターが弾けないおれの四人で、いったい音楽することは可能なのだろうか? そして、尾花さん、あんたひとりで音楽が出来るだろうか?」

 尾花は先刻からずっとかぶりを振り続けるばかりだった。すべては情けなく悲しく不可能なことばかりだった。
「ねえ尾花さん、あんたひとりが抜けちゃうだけで、おれたち五人全員からから音楽を奪うことになるんだよ。あんたさえいれば四人は音楽が出来る。あんたがいたから四人は音楽をやってきた。あんたは必須条件なんだ。わかった?」
 尾花は力なく頷いた。こめかみがズキズキ痛み、悲しく、疲れていたのだった。
 尾花が曖昧な足取りで出て行ったあと、沙汰達人はホワイトボードの文字を消しながら、ひとり呟いた。
「ところで、おれの音楽はどうしてくれるの、尾花さん?」
 小さく笑った。もちろん、音楽なんかどうでもよかった。

 ホワイトボードを壁際に戻し、急須と湯呑みを洗ってきちんと仕舞った。窓も閉めて鍵をかけた。指差し確認もちゃんとやった。すべてが明快で、思い通りに運んでいるような、いい気分だった。

 数週間前までそうであったように、有能な農業指導者の颯爽とした身振りと自信を取り戻していた、否、以前よりずっと明晰で快活で、幸福であった。なにしろ今は、古くて新しい最良の恋人とドライブする毎日なのだから。

 塚本家の台所で、炒り蒟蒻を作りながら、塚本・母が言った。
「ねえ、サッちゃん。ちかごろヤッちゃんは元気がないと思わないかね?」

 最近はなぜかサッちゃんと呼ばれている沙汰砂子は、うーん、と首を傾げて考えるふりをした。ヤッちゃんは確かに元気がない。毎日ひどく疲れて帰ってくる。だからこそ、沙汰砂子は小屋の鍵を手に入れることが出来たのだ。元気がないのに付け入って執拗に持ちかけ、半ば騙すようにして手に入れたのだ。元気な時のヤッちゃんなら絶対に駄目だったろう。お陰で手足を伸ばしてのびのび眠ることができ、とても具合が良かった。
「心配はいらないと思うわ、お母さん。ヤッちゃんはきっと夏バテよ」
「でもねえサッちゃん、ヤッちゃんは夏バテしたことなんかいっぺんもないんだよ」

 そうか、夏バテなんかしたことないのか、と沙汰砂子は感心した。「だけど、お母さん、ヤッちゃん三十七よ。夏バテくらいするようになると思うわ」
「そういやそうだね。ヤッちゃん、もうすぐ三十七だ。九月七日が誕生日……」言うと突然炒り蒟蒻を放り出し、一声「父ちゃん!」と叫んで台所を飛び出して行った。

 カランカランと空しい音を立てて床に落ちた菜箸を拾いながら、沙汰砂子は思った。そうか、ヤッちゃんてまだ三十六だったんだ。七だとばっかり思ってた。あたしより二つ歳下なんだ。ふうん。そうか。妹の歳も知らないなんて、あたし、どうかしてる。

 座敷では塚本・父が、これは本当に夏バテで、扇風機の前で伸びていたのが、妻の叫びに辛うじて顔だけは向けた。
「父ちゃん、大変だ! ヤッちゃんの誕生日を忘れるとこだった!」
「なんだと!」塚本・父は腹に掛けていたバスタオルを投げ飛ばして跳ね起きた。煽りを食らった小柄な扇風機がひどい悲鳴をあげて倒れたが、ふたりは気づきもしなかった。
「きょ、きょうは幾んちだっけか!」
「えーと、えーと、もう月末だよ! あと一週間しかないんだよ、父ちゃん!」
 ふたりは固く手を取り合った。なんとかしなければ、と互いの眼を見つめ合った。

 その夜、ハンスは疲れた体を書斎の扉の中にに滑り込ませた。

 暗がりを摺り足で半歩、また半歩と進んだ。扉のそばに留まらず、こんなふうに奥まで入ってゆくのははじめてだった。硬い何かが手に触れた。位置から察するに、ゲルハルトの椅子に違いなかった。死ぬときも座っていたゲルハルトさんの椅子……思った途端、闇いっぱいに主人の顔が浮かんだ。ざんばらの髪を箒のごとくぶら下げた逆さまの顔……何も見てはいない眼を剥いて……叫びを上げそうになったが、辛うじて押さえた。押さえたことでなお、恐慌に薙ぎ倒されそうになったが、それも踏張った。ここが塵と埃の支配する場所であることを、ハンスは誰よりもよく知っていたからだった。激しい息づかいや大きな動作は禁物。塵と埃を目覚めさせ、収拾不能の事態になる。半歩、また半歩、横に進み、さらに前進した。恐る恐る漂わせた手が、運よく電気スタンドの紐に触れた。

 闇は一瞬にして後退し、逆さまの顔の亡霊も消え去った。

 机の上の物たちが、電気スタンドのぎらつく明かりに浮かび上がり、ハンスの胸に感傷と追憶の波を起こしかけた。時は、ここでは止まっていた。時は、宙に浮いたまま、わだかまっていた。鞣し革のペン立ては倒れ、クリップが散乱し、毛抜き、曇った小さな鏡……様々なものが埃に鎖され、持ち主が生きていたときのまま放置されていた。真鍮の灰皿には吸い殻が四本残ったままであった。あの特徴的に甘い匂いが嗅覚によみがえり、再び亡霊の登場を促したが、それを押し止めたのは、積まれ、雪崩れかけて静止している旅行案内パンフレットであった。古びてなお鮮やかな色彩を保ち、けばけばしい惹句が乱舞していた。「豪華客船でゆくハネムーン」「ドイツ・ロマンチック街道ハネムーン」「魅惑のパリ!」「あなただけのラグーン!」「ワインと古城巡りの旅」「楽園リゾートベストツアー」「おてがるミニミニプラン地中海」――

 ハンスは幾度も頷いた。すべてはここで書かれたのだ。すべてはここで、これらけばけばしく薄っぺらなものどもを駆使し、歪んだ想像力で書かれたものにすぎないのだ。ゲルハルトさんの心が遠い外国のどこやらをうろついていたときも、肉体は常にここにあったのだ。

 それだけわかれば充分だった。声には出さず、呟いた。「ぼくは、負けないぞ。ぼくは、あなたの手紙なんかに、負けないぞ」

 ハンスは一歩、また一歩、後退した。亡霊の再登場を恐れて、電気スタンドを消す勇気はなかったにせよ、入って来た時とは明らかに違う確かな足取りで出て行った。

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