『ユリス』四章

 〈輝くユリスよ、ユリスよユリス。おまえの本当の名は、ユリスというのだ。ゲルハルト・パンネンシュティールが確かに俺の名であるのと同じくらいに、それは確かなことなのだ。

 本当のおまえは、ユリスよ、どこか遠い異国の岸辺、海に突き出た岸壁の、忘れ去られた古城の内、雲突く塔の最上階で、誰にも知られずたったひとり、そっと真綿に包まれて、気高く優雅に育てられ、実際には何の役にも立たぬ奥深い教育を施されるべきであった。だが、おまえの父と母は、無知なるが故にそれを怠った。かわりに、俺が与えよう。〉

 一通目の手紙を読みはじめてすぐ、ハンスは口をあんぐり開いた。ついでに「こりゃなんですか」と、言葉が口を突いて出た。

「手紙だよ」と、間髪を入れず塚本ヤスエ。「馬鹿じゃないの、あんた。手紙だよ。あんたが毎日毎日あたしんとこへ運んできた手紙だよ、ハン公」と、追っかけるような早口で言った。

 確かに、薄青い封筒は馴染み深いものであった。それにしても、
「ユリスって、だれですか」

 これには返事はなかったが、かわりに、スカートの布地が踊るほど激しくなった貧乏揺すりが、あたしだよ、あたし、ユリスはあたし、あたしがユリス、と苛立たしげに告げていた。

 小屋の中は焦熱の地獄であった。窓が三つもあったが、どれも開けることは出来なかった。小屋に入ってすぐ、あまりの熱気に思わず窓に歩み寄ったハンスの背後で、開けられるもんなら開けてみろ、と塚本ヤスエが嘲ら笑ったのだ。窓はどれも、土埃やら肥料の粉末やら歳月の澱やらで強烈に塗り固められていた。もとは透明であったらしい窓ガラスが、外の様子を薄らぼんやりと透かしていた。外は少し風が吹いているらしかった。東の窓からはピンク色のものがさやさやと気持ちよさそうに動いているのが見えた。沙汰砂子であった。南の窓からは機械的な動きの灰色のもの、沙汰達人が。西の窓からは真っ赤な自動車らしきもの見えた。沙汰夫妻は、ときおり明朗な声で呼びかけ合いながら農作業に従事しており、曇った窓ガラスから見えるぼんやりとした姿形のわりに、ふたりの声はごくはっきりと近くに聞こえ、若々しく快活な仕事ぶりが想像されるのであった。

 小屋の中では、止むことのない貧乏揺すり以外に動くものはなかった。

 〈おまえに相応しからぬ父と母を捨て、その父と母がつけたくだらぬ名前も捨て去って、俺のところへ来るがいい。おまえに必要なのは、俺ひとり。俺に相応しいのは、おまえひとりなのだ。
 もしも、おまえがこの求婚を承諾してくれたら、すぐさま旅に出ることにしよう。美しい船の旅だ。豪華客船だ。婚礼も、もちろん海の上だ。優雅な新婚旅行のあとは、よく手入れをされた古雅な城を買い、俺たちふたり、孤独な王と王妃のように暮らすのだ。
 さあ、どうか、使いの子供に返事を持たせてやってくれ。〉

 すっかりおとなになった〈使いの子供〉は便箋を取り落とした。求婚だって? あのゲルハルトさんが、この塚本さんに、求婚? 

「あのさ」塚本ヤスエは真顔で言った。「あたしは花も実もある十三歳だったんだよ。ゲルなんとかはあの当時から五十面の親爺だったろ? いや、ちゃんと顔見たことはなかったけどさ。どうしたってあたしとじゃ釣り合わないよ。なーにが結婚だよっ、ヘソが茶釜だ」

 豪快に笑ったあとグイと顎をしゃくった。さっさと読めというのだ。「この夏じゅうに決着をつけるんだ。あんただって、手っ取り早くおしまいにしたいだろ? 忘れてもらっちゃ困るがねハン公、行方不明のあたしを捜すのは、あんたの役目なんだ」

 ハンスは南京錠の掛かった四つの木箱を見た。ひとつは既に開かれて、今読まされている第一の手紙が収められていたのだが、見たところ千通にあまる薄青い封筒がぎっしり詰まって、ハンスという新しい読者を待っているのであった。四箱あるのだから四千通はくだるまい、いや五千通はあるんじゃないか。ハンス自身が二十年間届け続けた手紙は、封筒の右肩に几帳面にも番号をふられて、順序正しく四つの木箱に収められていた。これを読め、ぜんぶ読めと、塚本ヤスエは命じたのだ。「ぜーんぶ」読めと。

 〈ユリスよ、なぜ返事をくれないのだ? 俺は急ぎすぎたのか? そうか、そうなんだな、俺は性急に過ぎたのだ。それで、おまえは戸惑っているのだな? 考えてみれば、おまえはまだ、この土地から一歩も外へ出たことのない、田舎育ちの小娘であった。
 よろしい。はじめからやりなおしてやろう。いかなる偉業も、はじめの一歩が踏み出されなかったら、けっして達成されなかったろう。はじめの一歩こそ重要なのだ。
 いいか、俺を信じて、俺の指示に従って行動せよ。ひとつも間違ってはいけない。こまかな事もないがしろにしてはならない。
 おまえにとって、はじめの一歩とは、家を出ることだ。
 夜の八時に、おまえの貧しい家を出ろ。父と母はまだ起きていて、こんなに暗くなっているのにどこへ行くのか、と詰問するだろうが、木山聡子の家へ行くと言えばいい。重ねて、何の用事で木山聡子の家へ行くのかと問いただされるだろうから、本を一冊借りるために、と答えろ。父と母は息を呑むに違いない。おまえが本を読む気を起こすなんて、想像したこともなかっただろうから。そこですかさず書名を言うのだ、フォークナーのサンクチュアリだと。父と母は煙に巻かれ、もう何も言うまい。
 木山聡子が教室でおまえと机を並べているというのを、俺はちゃんと知っている。中学生にしては体格も頭脳もしっかりした娘だということも、こんな侘しい土地の娘にしてはなかなかの読書家だということも――おまえは知らなかっただろうが――俺はちゃんと知っている。あの娘がちかごろフォークナーに夢中だってこともな。
 家を出たら、当然だが、駅へ向かえ。おまえの足でも四十分というところだ。途中、木山聡子の家があるが、むろん立ち寄ってはいけない。時間がないのだ。最終の上り列車が桃の里駅を出るのは八時四十三分だ。迷わずに、飛び乗れ。
 荷物はいらない。荷物があっては父と母にあやしまれる。おまえに必要なものはすべて俺が用意する。〉

 そのあと、どこそこ駅に何時何分着、待ち時間が何分で、何時何分のどこそこ行きに乗れという具合に、都合五度の乗り換えを含む行程が、委曲を尽くして――と、いうより偏執狂じみた細かさで――書き連ねてあり、時間の余裕もなにもなくこなして港のある駅に到着するのは深夜十二時を少しまわった頃とされていた。

 途中、三度目の乗り換え駅で、遺失物預かり所に立ち寄る記述があるほかは、ひどく窮屈な時刻表めいた書きようなのであった。

 〈遺失物係の駅員は不審そうな目でおまえを見て、それでも表向きは丁寧な口調で訊ねるだろう。
「昨日、十五時五十一分着の下り列車に置き忘れられたお荷物とは、どのようなものでしょうか」
 おまえは、両手をいっぱいに広げて、平然と言わねばならない。
「こおんなに大きな白い紙袋」
 遺失物係の駅員はさらに追求するだろう。
「なかには何が入っていますか」
 おまえは無邪気な様子でひとつひとつ指折り数えながら、淀みなくこう言うのだ。
「ほのかに菫色の美しい夜会服が一着、申し訳程度に小さなヴェールのついた菫色の小さな帽子が一つ、箱に入った靴が一足、それに、レース飾りのたくさんついた少しも下品でない新しい下着が一揃い。新しい絹の靴下も、新しい絹のハンカチも、もちろん」
 遺失物係は溜め息を吐くだろう。数時間前、確かにその通りのものを自分の目で確かめたからだ、今まで見たことのない、淑女の身を飾る美しい品々を。そして、言うまでもなく、前日の十五時五十一分着の下り列車にそれらを置いたのは、この俺だ。
 荷物を受け取ったら駅の便所へ直行しろ。これまで着ていたくだらないものはすべて脱ぎ捨て、美しいものだけを身にまとうのだ。〉

 駅の汚れた便所で、いかに美しいドレスを汚さずに着替えるか、その仕方も遺漏なく指示されて、突飛で装飾過多な扮装をした小娘はこのあともまだ列車を乗り継ぎ乗り継ぎしなければならないのだが、

 〈見違えるほど立派な淑女になったおまえは、しかし、列車の座席に座る人物としては、かなり奇妙に見えることだろう。だが、気にすることはない。もう既に夜更けだ。この時間の昇り列車に乗客はほんのわずか、ほとんど無視できる程度の人数だ。〉  と、心配りの細かさを見せていた。

 〈一二時一八分、とうとうおまえはやっ――――〉
 突然、文字が消えた。
 塚本ヤスエが便箋をひったくったのだ。

「泣いてんの!」と叫びながら、小動物の敏捷さで小屋の隅まで退避し、振り向くと再び言った。「あんた泣いてんの。うげ」

 おのが人生の黎明期について書かれたかけがえのない紙を他人の涙が汚すなどもってのほか、「うげ」はもちろん「気色わるい」の強調形なのであった。

「ぼくが泣いているとしたら」――間違いなく泣いていた。便箋がかっさらわれた今、涙は乾いた土間に吸い込まれ、点々と黒い染みをつくっていた。――「涙の原因はいったいなんなのでしょう?」

「知らないね」という呟きが聞こえた辺りをハンスは見た。涙で膨らんだ眼のレンズが小鬼めいた姿をとらえ、その手に握りしめられた便箋の輪郭が薄らぼんやりと浮かび上がった。それで涙の原因に思い当たった。
「ああ! その手紙にとてもよく似た内容のものを、ぼくももらったのでした」
「あんたのことなんかどうだっていいんだよハン公。聞きたくないね」隅の薄暗がりから発された声はしかし、興奮したハンスには届かなかった。

「四日前のことでした。たったの四日前! ああ! 忘れていたなんて!」


 四日前の朝、それは集落で唯一人の郵便局員、つまりは郵便局長でもある小柄な老人によってもたらされた。

 赤い自転車を村道に止めて斜面を登ってきたのだった。不慣れなせいで制服の尻は泥だらけになり引っ掻き傷をつくっていた。長年郵便業務に携わっていたが斜面の家への配達はここ数年、否、十数年来はじめての事件だった。

 郵便局長は荒い息を吐きながら大きな声で言った。
「えー、ハンスさんてひとに郵便です」

 生まれて初めての自分宛ての郵便物を受け取るべく、ハンスは恐る恐る手を差し出した。が、郵便局長は指でつまんだ封筒を耳の横で振った。
「お金が入ってます」

 言うと、親指で強く封筒をなぞった。薄っぺらな紙の表面に硬貨の輪郭が浮き出た。一個、「ほら」二個、「ほらね」三個、「ほらほら」。それでも飽き足らず、陽に透かし見て「紙幣も入ってるかもしれないなあ」と言ったが、それは判明しなかった。
「とにかくお金は入れないでもらいたいんですよね。途中でなくなったりしちゃ困るでしょ。現金書留とかね、そういうのにしてもらいたいんですよ。あんたに文句言ってもしょうがないけど。あ、もし返事を書くんだったらついでにそのことも書いておいてね、次からは現金書留でお願いしますって、ね」

 そうしてようやくハンスの手に渡された封筒の裏側には「故ゲルハルト・パンネンシュティール氏の弁護士のような者」と但し書きのついた「越中行太郎」というまるで覚えのない名前があった。

 返事を出す際の望ましい仕方について、宛先の住所は正確に書くこと、ポストのある場所や切手の購入の仕方、切手を貼り忘れた場合にどのような嫌な感じになるかについて、縷々説明を試みている郵便局長の声を上の空で聞きながら、ハンスは中身を読んだ。
「至急、当事務所へ御出で願いたし」と、これ以上はない簡潔さと有無を言わさぬ筆跡で書かれているほかは、桃の里駅から目的地までの行き方が胡散臭いほど克明に描かれ、郵便局長の予感どおり紙幣――わずかではあったが――と数枚の硬貨、つまり正確に計算された運賃片道分が入っていた。

 今や郵便の未来について語りつつあった郵便局長にハンスは言った。
「返事を出すんじゃなく、会いに行くんです、直接」

 郵便局長は打たれた如く沈黙し、傷ついた者に特有のイガイガした赤みが漣となってその顔を覆った。

 ハンスには相手の傷心を気遣う余裕はなかった。
「ぼく、すぐに出かける支度をしなければ」

 だが、自室に戻って茫然となった。支度などありはしないのだ。

 斜面の茂みを降りてゆく郵便局長が足を滑らして短い悲鳴を上げるのを遠く聴きながら、ぼくは何も持っていないじゃないか、と呟いた。磨くべき靴もなければ鞄も持ってはいなかった。着替えたところで今よりましになるわけでもなかった。必要なものはすべて、握りしめた封筒のなかに入っていた。

 桃の里駅から目的地まで、ゲルハルトが塚本ヤスエに指示したのととてもよく似た行程を、ハンスは越中行太郎なる未知の人物が書いたとおりに辿って行ったのだ。


 不意に、強烈な匂いに鼻を殴られ、ハンスは我に返った。

 悪臭の原因は鼻先に差し出された褐色の液体だった。液体は魔法瓶の蓋になみなみと満たされていた。塚本ヤスエが「飲みな」と命じた。

 拒絶するにはあまりに唐突な命令だったため一息に飲み干した。匂いの強烈さを上まわる複雑な苦味が全身を、特に脳を強打した。閉めきった小屋の温度が最高に達する頃合だったが、ハンスは常にないほど明晰な気分になった。
「これ、なんですか」
「あたし特製のお茶。製法は秘密。あんたにはがんばってもらわなくちゃならないから特別に飲ませてやったんだ。滋養強壮。水分補給。あんた泣いたしね」と自分も飲み、思い切り渋面を作った。

 ハンスの膝には読みかけの便箋が戻されていた。涙はすっかり乾いていた。

 〈十二時十八分、とうとうおまえはやってきた。もう時間を気にする必要はない。夜の中で、まっすぐに延びたポプラ並木だけがオレンジ色に光り、おまえの歩くべき道を教えている。その先には、もう見えているはずだ、白と黒で塗り分けられた豪華客船、イル・ド・フランス号。なめらかな舷側にそう読めるだろう。だが、それより早く、おまえは俺の姿を発見する。俺はタラップの下でおまえの到着を待っているからだ。俺はいつもの俺とは違う。上等のタキシードを見事に着こなし、手には何も持っていない。おまえを両手で抱きしめようために、手には何も持ってはいない。
 もう少しも急ぐ必要のないおまえは、しかし、走り出さずにはいられないだろう。全速力で走り、一秒でも早く俺の腕の中に飛び込もうとするに違いない。おまえが勢い余って海に落ちてしまわないよう、俺はしっかり抱き留めよう。
 俺たちは一分の隙間もなくぴったりとからだを寄せ合い、互いの優雅な着衣を通して情欲に燃えさかりながら、よろめいてタラップを上るのだ。おまえの腰にゆるく結ばれたリボンが、はかないほどに菫色のリボンが、夜風に舞い、かすかな悲鳴のような音をたてることだろう。
 タラップの半ばで振り返った俺たちは、誰もいない暗い港に手を振ろう。さらば、不毛の国と不毛の時代よ、と。〉
「で、行ったんですか、港へ」とハンスは一応は質問してみた。
「行かない」と目をいっぱいに見開いて、塚本ヤスエ。「行く、わけが、ない」さらに目を見開こうとしたために恐怖小説の主人公みたいな顔つきになりかけたが、ふいに目を細めて言った。
「そもそもさ、何月何日の、とはどこにも書いてないじゃないか。何時何分、何時何分て小煩いくらいに書いたくせして、何月何日の何時何分か、どっこにも書いてないじゃないか」ニヤニヤ笑いのまま、「馬鹿親爺。大間抜け」と、低く呟いたが、次の一瞬で表情を一変させた。びっくりした猿の顔だった。
「違う! 違うかもしれない! 大間抜けじゃないかもしれない! あたしを馬鹿にしたんだ、このあたしを! 馬鹿にして、わざとやったんだ!」

 二十年間思いつきもしなかった可能性に、僅かな理性は吹っ飛び、屈辱に耐えかねて、塚本ヤスエは飛び上がった。驚きは、当然、怒りに火をつけた。
「絶対そうだ! わざとやったんだ! ぜえったい、そうだ! 畜生、糞親爺、ぶっ叩いてやる! ぶっ叩いてやるんだ! ぶっ叩いて、やりたいが、畜生! 糞親爺め、さっさとくたばりやがって!」

 耳を覆いたくなるほど口汚く罵りながら、小屋じゅうを駆け回り、壁に激突したりもしている塚本ヤスエの姿をぼんやりと目で追いながら、ハンスは思った。ゲルハルトさんがさっさとくたばったのは、塚本さんのせいかもしれないのに――

 それにしても、ぼくはどうしてあの日のことを忘れてしまってたんだろう。
 堪え難いほど明るい満月がハンスの顔を照らしていた。
 ぼくが変化を好まないと? この牢獄を出て自分自身の人生を生きる勇気に欠けているとでも? 
 すっかり思い出した今、忘れていた自分が腑甲斐なく思われてくるのであった。

 牢獄の窓はいっぱいに引き開けられて、自室の三枚きりの畳に仰向けに横たわったハンスは、月光の網にかかって身動きもならぬ囚人に見えなくもなかった。

 実際、身動きもならぬほど疲れ果てていた。はじめて塚本ヤスエの小屋へ行ったこの日、陽が傾いて文字が見えなくなるまでに読んだ手紙はたったの三通に過ぎなかった。帰りの道々、明日からはもっとたくさん読まなければと反省し、そうじゃないと手紙を読むだけで生涯を終えることになると暗澹とした。

 それにしても、塚本ヤスエという人物は予想以上に乱暴で不可解で、ハンスの気持ちを掻き乱し、その上、小屋はあまりに暑かった。

 疲労困憊の半日における唯一の収穫は、あの四日前の事件を思い出したことだった。

 ぼくは変化を好まないわけじゃないし、勇気がないわけでもない。少なくとも生まれてはじめて電車に乗り、東京という町へ行ってきたのだ。


 目的地は猥雑の密集する只中にあった。

 人一人がやっとのアルミサッシのドアを開けたその足元からいきなり階段がせり上がって、昇ろうとするものを拒む急傾斜にハンスはたじろいだ。だが、昇った。ここまで来たことをすべて帳消しにして逃げ帰ることは出来ないと感じていた。なにより、正確に計算された片道分の運賃をきれいに使い果たしていた。

 最後の段に、立ち塞がるようにもう一枚のドアがあった。曇りガラスに大きく《越中探偵事務所》とあった。ドアの向うで長身の影が動くのが見えた。

 ドアを開けた男は、殆ど鶴だった。

 長年の着用によってすっかり折り目も角もとれて丸みを帯びたズボンとシャツも、体全体の直線的な印象を和らげるには至らず、屹立する頭部には一握りの毛髪が、縫い針並みの硬さで揺るぎなく突き立っていた。ごく小さく真ん丸の眼は黄色に光り、ハンスの顔を直視していた。ハンスは思わず目をそらしたが、すぐ近くの別のものに釘づけになった。別のもの――異様に細長い首のほぼ真ん中に、痛ましいほどに尖り出た喉仏があったのだ。それが不意に上下運動を始め、そこから出た声は予想外に柔らかく、優しかった。
「ああ、あんたがハンス君ですか。そうですか。なるほど」

 越中氏は室内を一渡り見回し――見回すほどの広さではなかったが――片隅に寄せて置かれた椅子を指し示し「まあ、あすこへおすわんなさい。遠くからでさぞ草臥れなすったろう」と労い、自分はニスの剥げ落ちた傷だらけの机に戻った。

 ハンスが与えられた椅子は妙な位置にあった。越中氏の机からは不自然なほど離れていたし、壁の角にぴったりつけてあるために疎外感すらおぼえた。

 だが、理由はすぐに明らかになった。その片隅は、仮借なき西陽の襲撃から免れた唯一の場所だったのだ。
「冷たいものの一杯も振る舞いたいところだが、ごらんのとおりここにはなんの設備もござんせん。勘弁してもらって、手短に話しやしょう」

 部屋全体を灼き尽くさんとする西陽の只中にあって、越中氏は上半身を真っすぐに立て、殊に左半身はそれ自体が熾火のごとく発光していた。窓は大きく開け放たれていたがカーテンを揺らす程度の風もなく、そもそもカーテンがなかった。空気はカリカリ音をたてて燃えていた。それでもなお、越中氏の声音は労りと潤いを保っていた。


 で? 越中行太郎氏はそのあとなんて言ったんだっけ? そう、こう言ったんだ。ゲルハルト・パンネンシュティール氏が所有しておられたものは、すべてあんたのものになりやした。

 ぼくはあのひとに何度も同じことを言わせてしまった。情けないことにぼくはあのひとの言葉の意味をなかなか理解できなかったのだ。だけど無理もないのだ。ゲルハルトさんが所有していたものをぼくが所有するなんて、考えたこともなかったのだ。それで、ぼくはこの家にあるものを一つ一つ思い浮べて、何か所有したいものがあるかしらん? と考えたのだった。さんざん考えて、たった一つだけ思いついたから、こう訊いた。本も? すると越中行太郎氏は大きな声を出して、本もですと! と言った。そのあともずっと大きな声で何か言ってたけど、やっぱりぼくにはよくわからなかった。無理もないのだ、ぼくは、いったい本を所有するというのはぼくにとってどういう意味があるんだろう? と考えはじめていたのだ。確かにぼくは立ち入りを禁じられた書庫にコソ泥みたいに忍び込んで本を持ち出しては読んでいた。だけど所有したかったわけじゃない。確かにぼくは一つ一つの本に少しづつ異なった愛情を以て接してきたけど、所有したいと思ったことはなかった。

 ハンスの目から訳もなく涙がこぼれた。涙はとめどなくあふれた。自分が涙を流すことにすっかり慣れていたから何か拭うものがその辺にあったはずだと無精たらしく半身を起こして見ると、涙を拭うもののかわりに本の残骸が、部屋の隅に積み重ねられ、月光を受けて寂しく光っていた。

 もし、どうしても本を所有せよというのなら、ぼくはこの壊れた本だけを胸に掻き抱き、どこか遠く、誰も知らないところへ行って暮らすことにしよう。

 そうしよう。それがいいのだ。

 落涙はいよいよ本格的になり、拭うものが何もないとすれば少々問題だったが、ハンスは感傷の大波に乗っており、壊れた本を胸に掻き抱くべく、這いずって部屋の隅に手を伸ばした。

 その時、不意に妖しい影が月光を遮った。

 驚愕のあまり飛び起きて、逃れようのない三畳の部屋の隅に張りついた。壊れた本は蹴散らされて散乱した。
 小さい丸い声が聞こえた。「ごめんヨ」
 虎松の声であった。

 月光に輪郭を青く浮かび上がらせて窓いっぱいにずんぐり立ち塞がっているのは、やっぱり虎松であった。陰になっていてさえ、容貌の立派さは際立っていた。

 跳ね返る心臓を押さえつけて電球をひねると、虎松は長くて濃い睫毛をしばたいた。
「窓が開いてたもんでヨ」と、当人の立派な貌に負けず劣らず立派な野菜を盛った大笊を無理やり窓から押し込んだ。「小銭はいただかないヨ。蛇の目先生が代わりにくださったんでヨ」

 蛇の目先生は引退した歯科医であり、この家の数少ない訪問者の一人であった。
「蛇の目先生が?」
「うん。こないだ道端で会ったとき。いらないっていうのにヨ、くださったんだ」

 ハンスは野菜の大笊を前に正座した。申し訳なくて、ほかにやりようがなかった。
「虎松さん、今日はまたずいぶん遅いんですね」
「うん。ちょっと、そのう、会合、みたいなもんがあってヨ、遅くなっちゃった」

 会合、と言うとき、虎松の顔が明らかに上気したが、ハンスは気づかなかった。

 ふたりはしばし、それぞれの沈黙をした。

 出し抜けに虎松が手拭いを差し出し「あんた、月の光の中で泣くのはあんまり健康にはよくないヨ」と言った。

 その夜は虎松の野菜を抱いて眠った。なかなかに幸せな気分になっていた。

 本人は気づいていなかったが、ハンスの感傷というものは、なかなかに気紛れなのであった。

 寝入り端には、明日はもっとがんばらなくちゃ、とのなかなかに楽天的な決意をした。 これまでに二度の災難に遭い今は部屋じゅうに散乱した本の残骸は、そのままに放って置かれた。

 窓は開けられたまま、満月は窓枠内に留まっていられるぎりぎりまで粘って、涙で斑に汚れたハンスの顔を照らし、開けっ放しになった口の奥を照らし続けた。

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