『ユリス』七章

 勝手口を叩くトントコトン、トントコトントコトンという音に続いてギイと扉の開く音がし、三秒後に「いるの?」という声とともに小部屋の戸が勢いよく開いて、ゴワつく白衣の蛇の目氏が立っていた。「いたねぇ」と同時に両手にぶら下げた二つの包みのうち小さい方を一旦は耳の高さまで持ち上げて「これ」と言いざま差し下ろし、すぐに手を放してしまうから、ハンスは間合いを外さぬように受け取る必要があった。でないと包みは畳の上に落下してしまうのだ。なぜなら、 蛇の目氏の訪問の仕方は、このところ洗練に洗練を重ね、優雅な踊りの如く流れる一連の動作は殆どうわの空と言ってもいいくらいで、小さい方の包みを小部屋の入り口で手放すや「梅ちゃんいるぅ?」と、言わずもがなの質問を後方に放り投げ、もちろんこれにはいかなる返答も必要でなく、そのままするすると台所を通り抜けつつ「おんなじだよぉ」といい、階段の上がり端に到達してはじめて動きを止めるのだ。

 ここからは、興奮と不安、期待と焦燥の入り交じった少年みたいなぎこちなさで、大きい方の包みを両手に抱え直して、もつれ気味の足を踏みしめ踏みしめ階段を上がってゆくのだ。
「梅ちゃんいるぅ?」の梅ちゃんとはもちろん二階の老婆の名であり、外出はおろか階下に降りてきたこともない梅ちゃんが在宅か否かを確かめる必要はないのだが、蛇の目氏は、梅ちゃん、という響きがとても好きなのだった。ついでにいえば、するすると台所を通過するときに発する「おんなじだよぉ」は、「大きい包みも、いま君に渡した小さい包みも、内容物の量が違うだけで質的にはおんなじだよぉ」が洗練のために日々短くなったものであった。

 二つの包みは弁当で、ゲルハルトが死んだ翌日から毎日、それも日に二度、昼飯と晩飯の頃合に蛇の目氏はやってきた。以前は月に一度くらい、梅ちゃんの歯の検診です、と妙にこそこそしていたのが、ゲルハルトの死を境に不謹慎なくらいに浮き浮きして、弁当持参で来るのであった。大きい方は二階で梅ちゃんと食べるため、少し見栄を張って漆の重箱の三段重ねを華やいだ縮緬の風呂敷に包み、ハンス用の小さい方はといえば、孫どもが昔愛用していた幼稚園弁当の古いやつを戸棚の奥から探し出したので、キリンとブタとタヌキの顔をそれぞれ象った三個を重ねて大判のバンダナで包んであった。

 訪問の仕方が日々洗練されていくのと同調して、弁当の中身も日々改良されており、ゲルハルトの死の翌日には長男の嫁に拵えさせたのだったが、チキンライスとタコの形にしたウィンナーソーセージとチューリップ型に切った茹で卵という内容に満足できず、翌日からは蛇の目氏自らキッチンに立った。今は亡き妻の料理の技を記憶の奥まった辺りから探り出す一方で、食材を仕入れるついでに店頭で粘ってその調理法の奥義も仕入れる熱の入れようであった。

 勿論、斜面の家の台所に虎松が置いてゆく立派な野菜を無視して通ることはできず、今日はこの茄子をひとつふたつ明朝のためにこの胡瓜を一本、ついでに南瓜もと、ちゃっかり拝借してゆくことを忘れなかった。

 数々の失敗と試行錯誤の結果、長男の嫁の自慢であった小綺麗で快適なキッチンは惨憺たる有様になった。だが、長男の嫁はなにも言わなかった。おぼろげながらも知っていたのだ。斜面の家に棲息しているらしいひとりの老婆の歯が、義父を魅了してやまないのだと。

 義父が大小の弁当を抱えて出かけたあと、長男の嫁は嫌味にならない程度に、だが快適さと機能を取り戻すべくキッチンを掃除した。二時間もしたら戻って再び弁当作りにかかるであろう義父の情熱に、ひそかな声援を送っているのであった。

 いうまでもなく、蛇の目氏は歯科医であったが、とっくの昔に引退し、集落で唯一の蛇の目歯科は長男夫婦が引き継いで、父親の代よりもずっと立派にやっていた。

 《蛇の目歯科》と金色の文字が印刷された待合室用のスリッパが一足、数日前から紛失したままであることも、長男の嫁は誰にも言わなかったし、どころか新品の白衣を二着も義父のために下ろし、新品であるにもかかわらず一度洗ってからバリバリに糊を利かせたものをそっと義父のタンスに吊るしておいた。バリバリに糊の利いた白衣は、現役当時の義父の好みであった。斜面の家の老婆の類い稀な歯にまみえるときは、引退したとはいえ、これ以上はないほどに歴然と歯科医でありたいと願う義父の想いを、長男の嫁はなんとなく察していた。


 ぎこちなくも慎重に階段を上がってゆく蛇の目氏の、《蛇の目歯科》の金文字入りのスリッパを履いたかすかな足音を聞きながら、ハンスは弁当を開けるのだが、長年の習慣は変えがたく、台所のガス台の前に立ったままでキリン、ブタ、タヌキと可愛らしい弁当箱を次々に平らげるのであった。

 蛇の目氏の「おんなじだよぉ」という言葉通り、漆の重箱と幼稚園弁当は質的にはまったく同じであり、カリカリポリポリとやけに音のでるものが必ず三品ほど詰めてあるという特徴があるものの、実に丁寧で配慮が行き届き、美味といってもいい出来栄えなのであったが、ハンスの未発達な味覚には殆ど無意味なのだった。ただ、「お裾分け」という控えめな表現で差し出される親切が嬉しくて、空になった弁当箱を洗いながら必ずや涙に暮れた。

 この日はしかし、泣くのを忘れていた。頭の中でずっと一晩中――夢の中でさえも――フニクリ フニクラの歌声が響きわたっていたからだった。

 昨夕の控えめな影たちは、途中でいつのまにか消えてしまっていたけれど、あれはいったい誰だったんだろう。ハンスは楽しげに首を傾げてキリン、ブタ、タヌキの弁当箱を洗ったのだった。

 塚本ヤスエは膝立ちになってハンスの背にぴったり体を添わせていた。
 この数日はずっとそうしていた。
 いつもは黒いゴム紐で束ねている髪を解き、オリーブの風になびかせているつもりらしかった。実際には、汗に濡れた髪は首と背中に貼りついていたのだが、ハンスの肩を両手でつかみ、思い切り上体を乗り出して反らせている様子は船首像の女神みたいに真剣で、楽しげであった。
 ハンスは時折りそっと見上げ、盛大にひくつく鼻孔がオリーブやレモンの花の匂いを嗅いでいるらしいことに感心した。
 このところハンスも塚本ヤスエも地中海に夢中だった。

 〈このところおまえは地中海に夢中だ。船酔いから生還したおまえは遠い島影を見るたびに、あの島へ行きたい、あの島へ上陸したいと愛らしくせがむ。
 しかし、おまえ。何か忘れてやしないか? 何か教養講座を選ぶはずでは? 
 まあ、いいだろう。おまえが求めなくとも教養講座は向こうからやってくる。
 あの中年男を見ろ。甲板の手摺りにもたれかかり憂鬱を気取って海を眺めているあの男、パリを食い詰めた絵描きだ。友人知人を拝み倒して借りた金であちこち放浪した挙げ句、結局どうにもならずパリへ戻るところだ。無理をして豪華船に乗ったはいいが借金も底をつき、先行き何の展望もない。今も、思い切って海に身を投げればいっそさっぱりするだろうか、などと傍迷惑なことを考えていたに違いない。勿論、本当にそうする度胸はないのだがね。
 ほら、おまえの視線を感じて振り向いた、あの情けない目つきはどうだ。ふらふらこっちへやってくる。俺はしばらく身を隠して成り行きを見守るとしよう。〉

「塚本さん外国語はお出来になるんですか?」
「そういうあんたは?」
「いえ、ぜんぜん」
「気にするこたァないよ」
「でも、こっちへやって来ます。話しかけてくるに違いありません。ゲルハルトさんはどっかいっちゃったし、困ったな」
「そのゲル親爺だけどさ、あいつ外国語なんか出来たかい?」
「さあ? たぶん、いいえ」

 〈おまえの目があまりに澄み切って真っ直ぐなものだから、絵描きはたじろいで視線を逸らし、不明瞭な早口で言うのだ。
「お嬢さん、いえ、奥様でしょうか? 今ここにおられた立派な紳士はいずこへ?」
 辺りを見まわす落ち着きのない眼が実に胡散臭いではないか。
「さあどこへいったんでしょう。夫は有能で忙しいひとです。わたしの相手をしてくれることなんて滅多にありません」
「それはお可哀相に。少しの間ぼくに代わりを勤めさせてくださいませんか、奥様?」「ユリスです」
「ユリスさん、では、あすこのカフェへ」
 なんと凡庸な言い草だろう。画才も凡庸だったに違いない。パリを食い詰めたのも当然だ。
 ともあれ俺は静かに素早くカフェの植木鉢の陰に移動するとしよう。
 おっと、折悪しくプリンスがやってきたではないか。例の踊り子を公然と腕にぶら下げているところをみると、ついに陥落したのだな。俺を見つけて声をかけそうになったから、俺は口に手をやって黙らせた。プリンスは訳知り顔で片目をつむって見せた。何ひとつわかってはいないくせに。
「ユリスさん、ぼくはパリで絵を描いていました。あなた、絵はお好きですかな?」
 ああ、こいつの科白を書き留める作業は苦痛だ。俺の文才が泣く。
「はい。絵は、きらいではありません」
 おまえもおまえだ。もっと気の利いたことは言えんのか?
 とにかくおまえたちはだらだらと――俺がすぐ傍の植木鉢の陰で地団駄踏んでいるのも知らずに――だらだらとくだらないことを喋り――喋ったのは主に絵描きだが――二時間ばかりもしてようやく、
「では、明日からぼくの船室へいらっしゃい。画帳と鉛筆はぼくのをお使いなさい」という事になった。本当は、おまえの肖像画でも描いて高く買って欲しかったんだろうが、気が小さいから言い出しかねた。三、四日通わせて様子を見てから言うつもりだろう。
 が、とにかくおまえは絵を習うことになった。
 ひとつだけ、絵描きの名誉のために言っておこう。奴はおまえをどうこうしようというつもりはない。そんな余裕はないのだ。もしあれば俺が許さない。〉

 四人は桃の里集会所に集まっていた。
 防音の音楽室の真ん中で車座になり、考えこんでいた。
 何度か外へ出て音楽してみたけれど、誰かほかのひとのために音楽したとはいえなかった。なぜなら彼らはとても恥ずかしがり屋であったから、なるたけ人のいない場所を無意識に選んでいたのだ。
 誰かほかのひとのためにやるにはレパートリーが充分でないのは皆感じていた。
「マレキアーレはどう?」と局長が提案した。
「とりあえずね」尾花が沈黙を破った。「新しい曲を練習しようか」
「そだネ」虎松が明快に答えた。
「いいね」と尾花。
「いいね、いいね」と蜻蜒淵が虎松を見た。
「マレキアーレ」虎松は柔らかな威厳を以て決めた。
 四人はとても気が合うのだった。
 蜻蜒淵が早くも機材倉庫の楽器を出しながら陽気に言った。
「ねえ、外へ出た最初の夕方、誰かがおれらの音楽を聴いてるみたいな気がしたよ」
「そうそう、わたしもだよ。フニクリフニクラだったよね」局長がアコーディオンのストラップを肩に掛け制帽を少し斜めに被り直しシャツの釦をひとつだけ外しながら言った。
「暗くてよく見えなかったけど、あれは斜面の家のやつじゃなかったかなあ」尾花がギターの調弦をしながら言った。
「そだヨ」と虎松。虎松は何もしていず、ただマレキアーレな気分になろうと瞑目していた。
「おれらの音楽を聴いてあいつは元気になったような感じだったよ。おれにはそう思えたよ。大きな旗みたいなもんを、こう、振りながら行進するみたいに歩いてたもん」
 蜻蜒淵はそう言ってマンドリンをかき鳴らした。
 数日前の夕景が四人の心をひとつにした。
 四人は早速マレキアーレに取りかかった。斜面の家のあいつのために。

 〈おまえが絵描きの部屋へ通っている間にも、船の世間では様々な事件が起こる。
 例のプリンスは気紛れな踊り子に袖にされ、毎日バーに齧りついて酒びたり。お付きの爺いが気をもんでいる。
 愛妾に裏切られたマハラジャは腹立ちまぎれに問題の女をお払い箱にし、新しいハレム構成員を三人も調達した。その内の一人がプリンスを袖にした踊り子だというのは、いかにも狭い船の中での出来事らしいではないか。
 ハリウッド・スターの超絶的二枚目氏は着々と計画を進行中。金融家としての才能はどうやら本物だったらしい。困り果てた映画会社が一日に十数回も電報を寄越して説得を試みているが二枚目氏は知らん顔。
 他にも、伯爵夫人と男爵夫人が刃物で渡り合ったのが一件、決闘事件が二つばかりと心中未遂が一件。
 そうそう、うっかり忘れるところだった。出航の時鉛入りの黄色いテープに狙われた男がいたのを覚えているかね。帽子を飛ばされた老紳士ではなくその傍に立っていた男だ。あの男が実は殺人犯だという噂が立った。噂はあっという間に広まって、上品ぶった連中も下世話な話に熱中し、やれ目つきが陰惨だの無口過ぎるの背中が暗いの、果ては物騒だから捕まえてくれと事務長に掛け合う婦人連も出たが五日も経つと沙汰止みになった。当の本人が平然と特一等におさまり返って晩餐にもカフェにも顔を出し、噂などどこ吹く風、屈託した様子もない。確かな証拠があるわけでもない。そもそも噂の元は口さがない三等の連中だろうから信用に足る話じゃないさ、ということになったのだ。
 だがね、俺は知っている。あの男は本当に殺人者だ。だからこそ、例の鉛入りの黄色いテープを投げた女はあの男をつけ狙っているのだ。おそらくは復讐のためというところだろう。出航のときは狙いをはずしてあきらめて立ち去ったが、いつかまたあの男の前に、そして俺たちの前に姿を現わすことだろう。
 しかし、殺人者が同乗しているからといって、おまえはことさらに不安がることはないがね。なぜなら、おまえのことは俺が守っているのだし、そもそも船には、ことに豪華客船というものには物騒な人間の十人や二十人は乗っているものだ。
 と、まあ、華やかな豪華客船といえども人間の寄り集まった世間に変わりはなく、長い航海ともなれば様々な裏の事情も見えてくるというわけだ。
 ところで、おまえの勉強は進んでいるだろうか。
 絵描きは未だに肖像画の件を持ち出さないままだ。そんな事はすっかり忘れている、おまえに夢中で。
 画帳を抱えて座るおまえをやや斜め後ろから覗き込み、おまえの引く線の一本毎にいちいち溜め息を洩らしている。絵描きの船室にはおまえの描き散らした絵が散乱し、掃除に来たボーイも追い返してしまうから、借金を使い果して張り込んだせっかくの一等も台無しだ。だが絵描きは気にもしない、おまえの類い稀な才能に夢中で。
 絵描き自身の画才は凡庸だが、才能を見出だす才能は本物。小さな画帳におまえの才能を閉じこめておくのはもったいない、もっと自由に大きな絵を描かせてみたいと考えた。
「ユリスさん、ぼくと一緒にパリへ行きませんか」
 しかしおまえはパリなど行く必要はない。きれいな指を絵の具で汚す必要もない。おまえは絵など描く必要はないのだ。なぜなら俺は、おまえに倍する才能と技術を以て絵を描くことができるのだからな。
 そろそろ退屈も終わりだ。もうじきマルセーユに入港する。
 ところで、おまえはどんな城が望みかね?
 この数日相手をしてやれず淋しい思いをさせたろうが、俺が忙しくしていたのは城を用意するためであった。日に何度も電報室に通い、売りに出されている城の情報を総当たりしたのだ。ここに選りすぐりの物件を二つ紹介しよう。
 一件はカールスルーエの南東にある。優しげな空の下、眩く白い貴婦人の如き立ち姿は、通称《千の羊城》。
 円錐形の青い屋根を被った六つの尖塔が、それぞれ微妙に違う風情で立ち並び、複雑で美しい陰影を作り出している。ファサードには段状テラスが広がり、そこから庭園を眺め優雅に一日過ごすもよし。
 外壁にはくっきりと大きなアーチ型の窓が幾つも並び、明るさと解放感を保障している。内部は華麗な円天井と数多くのドラマティックな壁画で飾られ、生涯眺めても飽きることはないだろう。居室も大広間も至る所隙間なく美しい装飾が施され、階段は緩やかな螺旋を描いて、この階段を下りてくれば、どんながさつな人間でも優雅に見せてくれる。
 そして白眉は、眠るのが惜しくなるほどの寝室。天蓋つきの寝台はふんだんに金の縫い取りをした深紅の布で蔽われ、壁には壁画でなく暖かく穏やかな場面を描いたタペストリーが何枚もかかり、天井には千匹の羊が描かれている。羊たちの顔つきも毛並みも動作も、同じものはひとつとしてない。無論、数えるか数えないかは自由である。
 言うまでもなく《千の羊城》と呼ばれるのは、この素晴らしい天井画による。
 この城には厳しいところ、偉ぶったところはひとつもない。
 十六世紀に建てられたルネッサンス様式のこの上なく美しく優しい城、夢見るための夢の城、それが《千の羊城》だ。
 二件目は、モーゼル川に程近い険しい丘の上に建つ。
 胸突き坂を登ってゆくと、戦いを挑むかの様に立ち塞がる城、というより砦だ。
 こちらはずっと時を遡り十二世紀に建てられたものだ。
 人呼んで《狼の牙城》。その名の通り堅牢であり、陰惨の気配に満ちている。
 北翼と南翼に分かれ、両翼ともに矩形の監視塔を備えている。監視塔には無数の矢狭間や出し狭間が設けられ、胸壁の回廊に到る螺旋階段は息苦しいほど狭く、敵兵の武器が軸柱にぶつかって扱いにくいように右まわりに昇る造りになっている。
 表門には跳ね橋と落とし格子があり、さらに門扉は重く厚い板に鉄の帯板で補強され、敵の侵入に対して幾重にも備えている。
 窓は全くといっていいほど無い。
 人の住み処としては辛うじて合格というところか。
 不便なことこの上ない城だが、俺たちの孤高の暮らしにはうってつけであろう。
 この二つの城、夢見るための夢の城《千の羊城》と、鉄壁の要塞《狼の牙城》、おまえはどちらがお好みか?
 さあ、選んでくれ、マルセーユに入港する前に。
 言っておくが、両方は駄目だ。二つの城に同時に住まうことはできないし、片方を別荘にしておいて行ったり来たりする俗な暮らしは御免だぞ。何度も教えたように、俺たちは俗世を離れた生活をするのだから。
 返事は例の子供に持たせてくれ。〉

 蛇の目氏は、階段を上がり切った所で気合いを入れた。梅ちゃんを訪問するときは毎回そうするのだ。六つある寝室のどれに梅ちゃんが居るのか感じ取るためなのだ。

 蛇の目氏は左側の真ん中の扉の前で立ち止まり、梅ちゃん入ります、と声をかけた。返事はなかったが、弁当の大きな包みを抱え直してから扉を開けた。果たして梅ちゃんはそこに居た。寝台に横たわり上掛けを胸まで引き上げて、光る眼で蛇の目氏を見ていた。

 寝室当てはまだ一度も外れたことがなかった。不思議ではあったが、梅ちゃんの美しい歯への多大な関心ゆえと、蛇の目氏は解釈していた。

 蛇の目氏は梅ちゃんの年齢を知らなかった。たぶん自分よりは十か二十ばかり上なんだろうとひどく大雑把な推測をしているだけだった。
「きょうはまた、なんの用?」と梅ちゃんが言った。
「梅ちゃんの歯の検診です。でもその前にお弁当を食べましょう」
 毎回――日に二度――同じ挨拶が交わされた。

 まだ日暮れには間があったが、蛇の目氏はまず電灯を点けることに決めていた。これからはじまる貴重な時間の途中で、電灯を点けるために立ち上がるなど、もったいないと思うからだった。

 梅ちゃんが起き上がると枕の位置を直してやり、寝台用の小卓を具合良く載せ、持参の三段重ね重箱弁当をその上に展開した。それは歯の診察や治療をする時のように冷静で熟練しており手際がよく、理知的ですらあった。

 梅ちゃんが食べはじめると、蛇の目氏はひとつひとつの料理の名称――自分で名づけたものもあった――と、調理の過程や素材の特徴などを淡々と解説してゆき、その間に愛する歯をじっと見つめるのだった。今タクアンに噛みついたやや大振りで揺るぎない二枚の中切歯、その両隣では健気な印象の側切歯が頑張っており、そして今しも手羽先を引き裂こうとする鋭く尖った犬歯、稀にチラリと見える小臼歯と大臼歯たちは愛敬ある丸みを帯びて里芋の含め煮を残酷なほど噛みしめ、そのすべての歯が真珠母色に輝き、少しの変色も欠損もなかった。

 梅ちゃんの食欲は壮大だった。顔の筋肉も手も最小限にしか動かさないが、全体で見ると大量のものを咀嚼し嚥下して、飯粒ひとつモヤシの髭一本残さなかった。驚くべきことだったが、蛇の目氏はこの数日ですっかり見慣れてしまっていた。

 空になった重箱を風呂敷に包み寝台の上を元通りに直すと蛇の目氏は、これも毎回同じ別れの挨拶をした。

「じゃあ梅ちゃん、ぼくはこれで帰ります。また来ます」
 この日はしかし、階段を降りながら、ふと何か物足りないような気がしたのだ。
 何か、他に話すべきことがあるんじゃないだろうか? 
 毎回判で押したような無意味な挨拶と長たらしくて少々自分本位な料理解説の他に、何か――振り返って二階を見上げた。夜と静寂のほかに何も見えなかった。

 階下では台所脇の小部屋に明かりが灯り、曇りガラスの向こうでかすかな声が歌っていた。フニクリ フニクラ。

 小部屋の外に置かれた小さい弁当の包みをそっと摘み上げて、蛇の目氏は声をかけず外に出た。珍しい事だった。

 船はなかなかマルセーユに入ることができずにいた。

 〈おまえが城を選ばぬかぎり、マルセーユに入港することは出来ぬ。早く返事をくれ、早く。〉

 地中海をこれ以上は無理というほど丹念に航行し、無論美しい島々に立ち寄る事もなく、「地中海の彷徨える幽霊船」と物笑いになるほどうろつきまわった。「かつて存在した最も美しい船」「海をゆくアール・デコ」と称賛されたイル・ド・フランスもいささか草臥れていた。

 ハンスは軽快に読み進んでいた。このところ、城を選べの返事をくれのという短い文面ばかりで作業はとてもはかどった感じがしたし、それになぜだか浮き浮きしていた。
「地中海の彷徨える幽霊船って呼び方はとても魅力的ですフニクラ。お城選びもなかなか楽しそうですけれど、ぼくはやっぱり、地中海がとても好きフニクリ」
「うるさいよハン公」という塚本ヤスエの不機嫌な言い方にもほとんど傷つかないほど浮かれていた。

 だが、信じがたいほどの忍耐でここまでつき合ってくれた乗客たちは最早、ハンスほど地中海を楽しんではいなかった。当然、苦情が出はじめ、不穏な空気は日毎に色濃くなっていった。乗客たちも船同様、草臥れていた。

 〈日に幾度も船長自ら俺たちの船室に足を運び懇願する。どうか入港の許可をパンネンシュティール様。マルセーユがお嫌ならどこぞ他の港へなりと――
 だが、俺は頑としてはねつける。おまえが城を選ばぬかぎり、いかなる港にも停泊を許すことは出来ぬのだ。
 船長の落胆を、事務長の焦躁を、そして乗客たちの疲弊を見るのは俺も辛い。だが、俺の決意は硬い。今度ばかりはダイアモンドの如く硬いのだ。〉

「ダイアモンドとは、また、ありきたりな比喩ですフニクラ」

 〈ある日、なんということだ、実の弟ほどにも懇意にし、友愛を育んできたはずのあのプリンスが、老執事に持たせた書面で慇懃な脅しをかけてきたのだ。俺は怒りに震えながらそれを読んだ。
『親愛なるゲルハルト・パンネンンシュティール殿。貴殿を兄とも父とも慕い、敬愛を惜しまぬ私ではありますが、昨今の貴殿のなされようには強い不安を感じ――』怒りのために、中略! 『ご無礼を承知で申し上げるなら、狂気の沙汰と――』さらに怒りのために、中略! 『事態が改善される兆しがない場合、我が海軍の精鋭に何らかの要請をする必要があるやも――』怒りが爆発したため、以下省略!
 ああ、なんということだ、あのプリンスまでもが俺の敵なのか!〉
 プリンス・オブ・どこそこの動向を見守っていた連中もさてこそと右に倣って苦情の書面を寄越しはじめ、婦人連は船長や事務長に詰め寄る一方で、大食堂や昼食室でユリスに近づき上品な当てこすりを言うのを忘れなかった。

「でも、ユリスも負けずに反撃フニクリ」

〈もっと下等な連中は徒党を組み頻繁に集会を開いている様子だったが、今朝、ついに印刷室を占拠してしまった。あの愛らしい《黒山羊通信》や晩餐の華麗なメニュー、そして俺たちの婚礼の招待状、それら心のこもった美しいものたちが作られていた場所で、不粋なビラや抗議文や声明文が大量に印刷されてゆくのだ。『ゲルハルト・パンネンシュティールの横暴を許すな!』〉

「ぼくも同感フニクラ」

〈『航路決定権を我らが手に!』〉

「当然の要求フニクリ」

〈『ゲルハルトの身柄を引き渡せ!』〉

「ちょっと過激なフニクラ」

〈『ゲルハルトに死の制裁を!』〉

「そりゃあんまりなフニクリ」

 〈こうまで孤立してなお、俺はおまえの返事を待っている。〉

「なんだ、それが言いたかっただけフニクラ」

 〈ああ、しかし、船長がついに決断を下してしまった! 地中海を出て大西洋を渡るというのだ。航路を決めるのはこの俺ではなかったのか? 俺はもちろん、激怒した。〉
 激怒したゲルハルトの怒号、悪態、悪口雑言、蛮声、雄叫び、野次、恨み言が数ページにわたって書きなぐられていた。

「あんまりな書きっぷりに、ぼく目がシパシパしますフニクリ」
「やめ!」と塚本ヤスエが制止した。
「はい? フニクラ?」
「あんた、変だ」
「そうでしょうかフニクリ?」
「変だ、ぜったい! みょうなぐあいに浮かれてる。あたしはそういうのは好かない。ちゃんとやってもらいたい。ちゃんと身を入れて読んでもらいたい」
 塚本ヤスエはいじらしいほど真剣だった。
「すみません」思わず反省し、身を引き締めた。
「声に出して読みな」と命じた。
「それは恥ずかしいです。困ります」
「恥ずかしがってる場合か。言う通りにしなハン公。声に出して読みなハン公」と言い張った。
 たったいまいじらしいと思ったのは間違いだった。だが、真剣は真剣だった。
「えーと」
「えーとはいらない。書いてあることだけ言いな」

「俺を無視して、船長は、乗客全員を大食堂に集めた。説明会をしようというのだ。船長は大聴衆を前にしていささか緊張していた。言うべきことは紙に書いて持っていたが、老眼鏡を忘れてきたために読むことができなかった。
『えーと』あっ、このえーとはちゃんとそう書いてあるんです、えーとって。『えーと。紳士並びに淑女の皆様方、本日はお忙しいなかをお集まりいただき恐縮至極でございます。えーと。』あっ、このえーとも書いてあるんです。『えーと。この度は、航路の件につきまして、皆様には多々ご迷惑をおかけしておりまして、大変にそのう、えーと、遺憾に思っておる次第でございます――」

「月並みだね」
「は?」
「船長の挨拶がさ、月並みだろ? 面白くないだろ?」
「はあ……でも、書いてある通りに読んでいるんです、ぼく」
「うん」塚本ヤスエは少し考えてから言った。「面白く読みな」
「は?」
「少しなら変えてもいいから面白く読みなハン公」
「面白く、ですか?」

 塚本ヤスエは、ちょっと待て、と少し離れた木箱に移動し、足を組んでから、はじめろという合図に顎をしゃくった。偉そうな演出家のような態度だったが、ハンスは演出家というものを見たことがなかったから反感を抱いたりはしなかった。
「しどろもどろの挨拶を引き延ばす船長に、乗客は騒めきだした。わざと大欠伸をする者や野次を飛ばす者もいた。あわや、説明会は大失敗に終わるかと思われたその時、例の美男のボーイが船長に駆け寄ったのだ。手には今船長室から持ってきた老眼鏡が――」

「なし!」と声が飛んできた。
「え?」
「老眼鏡は、なし!」
「どうしてですか? そう書いてあるんです、美男のボーイが老眼鏡を、って」
「なしだってば! 老眼鏡をかければ、船長は紙に書いてあるのを読むだけになるじゃないか。それじゃ面白くないだろ? ちょっとは頭を使いなハン公」

「手には……手には今船長室から持ってきた老眼鏡が……あったはずだったんだけども、いつのまにか消えていて……消えていて、代わりに、招き猫の貯金箱を持っていたのだ。美男のボーイはそれを差し出した。受け取った船長は、ボーイの頭をひとつどやしつけてから、招き猫の貯金箱を頭上高く差し上げて、言った。
『皆さん、これが何かおわかりか?』
 乗客たちは口々に答えた。オー、ソレワ招キ猫ノ貯金箱デワナイデショーカ? センチョーサン、ドウユウオツモリデ招キ猫ノ貯金箱ナノデアリマショーヤ?
『そうです。これは紛れもなく招き猫の貯金箱です。この通りちゃんとお金も入っています』と振ってみせた。
 大量の小銭が鳴った。
『この招き猫の貯金箱は、わたくしが八歳の頃から大切に大切に小遣いを貯金してきたものです』

 これは大嘘だった。招き猫の貯金箱は年老いたボイラー係の所有物であった。美男のボーイがなぜか老眼鏡と取り違えて持ってきてしまったのだ。それを知る由もない船長は、

『この招き猫の貯金箱はわたくしの命同様大切なもの』
 と、力一杯に大理石のテーブルの角に打ちつけた。言うまでもなく、招き猫の貯金箱は木っ端微塵に砕け散り、大量の小銭と破片が飛び散った。
 乗客たちの間から驚きと非難の声があがった。
 が、船長は悠然と構えて言った。
『この砕け散ったわたくしの命に賭けて、お約束します、皆さんをニューヨークへお連れすることを!』
 非難の声は歓喜の叫びに変わった。オー、ニューヨーク! ニューヨーク!
『イル・ド・フランス号は速やかに地中海を出て大西洋をまっしぐらにニューヨークへ向かうことをお約束します。この迷走の旅もそこで終わり、皆さんは自由の身です。まったくの、自由の身であります!』

 拍手と歓声の隙間に、小さな悲鳴と水音が上がった。年老いたボイラー係が身を投げたのだった。招き猫の貯金箱は、彼の――船長のでなく――命そのものだったのだ。
 一個の命と引き換えに大成功を収めた説明会の後、船は進路を――」

「ちょっと待て」と塚本ヤスエが遮った。「怪しいな」
「なにがです?」
「話をだいぶ作り変えてないか?」
「そんなことはありません。大筋は合ってます。辻褄も合わせたつもりです。それに、塚本さん、一度は読んだんでしょう?」
「うん。だけどこまかいことは憶えてないんだ」
「疑うんなら自分で読めばいいじゃありませんか」少し腹が立った。 少し考えてから、塚本ヤスエは決然と言った。「いや。読まない」それから、静かな、腹に響く声で続けた。「前にも言ったように、今はあんたの目と脳ミソを使って読むことにしてるんだ。だって、あたしが行方不明になったとき、あたしを捜すのはあんたなんだからねハン公」

 沈黙と重責がハンスの肩にのしかかった。そうなのだ。今ぼくの目の前で足を組んで座っている塚本さんは、いつか行方不明になってしまうのだ。

 込み上げる涙を必死に押えたが、少しは零れてしまった。ぼくは、このひとを見つけてあげられるだろうか? ぼくにそんな力と知恵があるだろうか?

 悲しみを振り払い、つとめて明るく言った。
「このあと、ほら、事務長が説明をしてくれます。ちょっと読んでみましょうか?。事務長がゲルハルトさんの船室にやってきたのは、説明会の翌日のことです。事務長、内緒話をするときみたいな囁き声でこんなこと言ってます。『わがイル・ド・フランス号は、まっしぐらではなくて、ぼ〜んやりと西に航行しはじめました。まもなく地中海を出るでしょうが、なるべくゆっくりだらだらと大西洋を航行して一応はニューヨーク方面に向います。が、ニューヨークに着くまでに奥様のご返事があれば、すぐにでも引き返し、マルセーユに入港するというのが船長の意向であり戦略でございます。これをもちまして船長以下わたくしどものパンネンシュティール様への忠誠心と思し召しくださいますよう。迅速に行えば、ほかのお客様方もそううるさくはおっしゃいますまい』事務長は片目をつむり、『奥様のご返事がありますことを、わたくしどもも心から願っておりま――」

「やめ!」と再び鋭い声が飛んだ。
「今度はなんです?」

 返事はなく、塚本ヤスエは立ち上がって窓の方を見ていた。

 ぼんやり霞んではいたが、沙汰夫妻が寄り添って立っているのが見えた。妻は夫の肩に頭をもたせかけ夫は妻の頭を庇うように抱いて、こちらに背を向けて立っていた。

「あれはなんだ」塚本ヤスエが低く呟いた。
 寄り添う夫妻のずっと向こう、林を抜けて何かがやってくるのだった。キラリと光る何かを手に持って。
 ぼくが今日なんだか浮き浮きした気分だったのは、あれのせいだったのだ。あれはいつかの晩の四つの影。ぼくはずっと心の中で歌っていたのだ、フニクリ フニクラ。


 沙汰達人はひどく不安だった。
 妻は今、おれの肩に頭を載せている。可愛らしく何かを聴いているふうに見えるけれど、本当は何も聴いてはいない。
 妻はこの頃少しおかしいのだ。どこがどうおかしいかは判らないけれどおかしいのだ。
 背後の小屋の中から強い視線を感じて、不安はさらに強くなった。
 あのふたりが小屋に通ってくるようになってから、妻の様子は少しづつおかしくなったのではないか? 
 以前はせいぜい週に一度、塚本ヤスエは小屋にやって来ても一時間かそこらで出ていったのが、近ごろ毎日来て、それもふたりで、斜面の家のなんとかいう変な奴と一緒で、昼過ぎから夕方までずっと小屋に籠りっきりだ。時々悲鳴のようなものや、キャアキャア騒ぐ声が聞えたりもする。おれでさえ小屋の中で何が行なわれているのか気になってしょうがないのだ、妻はどれほど――そういえば、小屋のことで妻と話し合ったことは一度もなかった。

 林を抜けて四人の男たちがやってくる。畔道を一列になって、左右に小刻みに揺れながら、フニクリ フニクラと歌いながらやってくる。歌っているのは、あれは虎松さんではないのか? キラキラ光る楽器を抱えて続くのは郵便局長、その後ろは蜻蜒淵くんのようだ。しんがりの背の高いのは虎松さんとこの尾花ってひとに違いない。なぜ、こんなことをしている? なぜナポリ民謡なんかを歌いながらこっちへ来る? お願いだ、来ないでくれ。こっちへ来ないでくれ。妻はあんたたちの音楽なんか聴いていないんだ。お願いだ、おれたちにかまわないでくれ。

 心はおののき叫んでいたが、体は沈黙、呻き声ひとつ上げず指一本動かなかった。なぜなら、妻・砂子がなぜ何も聴いていないのか、その腕に抱いている妻・砂子の頭の中がどんな様子であるのか、本当のところは何も判っていないからだった。

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