『ユリス』六章

 道端にぽつんと置き忘れられた小さな郵便局があった。
 入口の脇には黄色い花を三つ咲かせた鉢植えと、円筒形のポストがあった。
 郵便局の前で、郵便局長が自転車にペンキを塗っていた。
 空には迷子の雲が一つ。
 今朝は配達すべき郵便物がひとつもなかった。悲しかった。
 きれいに掃き込まれたコンクリートの上に車輪のスポークがくっきりと影を落とし、傍らにはペンキの入った缶が縁を煌めかせていた。
 世間は耳鳴りのごとく静かであった。

 空は眩いほど青く、赤いペンキは塗ったそばから乾いていった。本当は郵便ポストを塗りたくてたまらなかった。が、七日前に塗ったばかりであったから我慢すべきだと思った。あの時はあんまり熱中していたので蛇の目氏が通りかかるのにも気づかなかった。蛇の目氏は陽気な声で「おや、またペンキ塗りですか局長さん」と言った。蛇の目氏は大小二つの風呂敷包みを持って跳び跳ねるように通り過ぎて行った。「局長さん」と呼ばれるのは大好きだったが郵便ポストのペンキ塗りを見られてしまったのは好ましくなかった。郵便局への過剰な恋着を他人に気取られるのは好ましくなかった。なぜなら、この恋はいずれ破綻するのがわかっていたから。

 祖父から父へ、父から息子へと受け継がれてきた桃の里郵便局は、この局長の代で途絶えようとしていた。局長には妻も子もなかった。養子をとってはどうだと助言する者もあったが、それは理想的とは言い難かった。

 局長としても安閑と独り身でいたわけではなかった。まだ見ぬ我が息子について考察を開始したのは若干十五歳の時だった。生まれながらに桃の里郵便局長となるべき息子は充分な資質を備えていなければならず、また気高い人格者に育てなければならなかった。二十代にさしかかる頃、息子の母親になるべき女は勿論愛情深く多芸多才で立派な教育者でなければならないと考えるようになった。三十代も半ばを過ぎたあたりで、息子の母親はとりもなおさず我が妻でもあるとの確信に辿り着いた。まだ見ぬ我が妻は、果たして理想の息子を産み落としてくれるだろうか? 永い年月考察を加えてきたために理想の息子像は局長の胸の内で揺るぎない姿容と具体的な細部を備えていた。まだ見ぬ我が妻が産み落とすのは果たしてその息子だろうか? それともまるで別人なのか? 煩悶すること数年、実際に行動を開始したのは五十歳も間近かになってからだった。桃の里集落はいうまでもなく近隣の村や町もくまなく探した。たとえすでに夫のある女であっても、桃の里郵便局の存亡がかかっているのだと談判する覚悟もあった。が、しかし理想に適う女は一人もいなかった。いるはずもなかった。理想の女は理想の息子にもまして条件が難しく、そのすべてを一人の女の中に見出だし得るものではなかった。空しい探索の数年が過ぎたあとは諦めるほかなかった。

 とりあえずはしかし、局長が桃の里郵便局の局長であることにかわりはなかったから、息子と妻への失望は桃の里郵便局そのものへの偏愛を煽り立てた。当面の悩みは、桃の里集落の人々が郵便という繊細かつ偉大な仕組みについて極めて無知でありまた無頓着なことだった。勢い、配達に行った先々で、郵便のあるべき姿について、あるいは郵便の未来について長広舌を揮いがちであったが、相手は概して好意的に傾聴し、その結果、二年もすると局長の熱弁は歌祭文ほどの意味しかもたなくなった。つまり耳に快くはあるが内容は理解できないのだった。人々は互いに、昨日の局長さんは良いお声だったの今朝の局長さんは少し痰が絡んで不調だったのと批評を述べ合うようになった。人々が僅かに持っていたはずの郵便に関する知識も意見もあらかた失われた。

 残る意欲はペンキ塗りに振り向けられた。赤かるべきものは、もっと赤く! 鮮烈に赤く! かくして桃の里郵便局長は自転車のペンキ塗りをしていたのだった。

 今朝はしかし、先週のような不覚はとらなかった。
 遠くで人の気配がした。
 ペンキの缶を鉢植えの陰に隠し自転車を脇へ退けて、待った。
 陽炎揺らめく道をやってきたのは蜻蜒淵であった。
「きょうあたり、どうかね、ッて」蜻蜒淵は言った。
 局長は小柄だったので蜻蜒淵を見上げ「きょう? いいね。やろうよ」と言った。
「言うと思った。じゃ、いつもと同じで」
 蜻蜒淵はポニーテイルを揺らしながら、来た道を戻って行った。

 人生が俄に違うものに思えて、蜻蜒淵の後姿を見送りながらラジオ体操の深呼吸をしてみた。やっぱり人生は違う輝きを放って見えた。そうなのだ、近頃は歳のせいで悲嘆に沈むこともあったが、もうひとつの歓喜に満ちた濃厚な時間を過ごすも可能だったのだ。

 〈習慣とは、陥るものではなく、作るものだ。
 朝は寝台から出ずに紅茶だけにしよう。午後になってようやく起き出しランチはほんの少しだけ啄ばむことだ。だが、晩餐の席では見事な健啖家ぶりを見せてくれ。こんな船で旅をしようという連中はたいがい永年の美食のせいで胸焼けやら胃弱に悩まされているだろうが、おまえは違う。おまえの消化器官は新品同然、出てくるものを端からすべて、涼しい顔をして食べ尽くしてくれ。周囲のどこかから拍手が沸き起こり大食堂全体に広がり、それを伝え聞いた厨房では遊び心を刺激された料理長が即興で鱈や鱒と格闘し、白髪の給仕長が巨大な銀盆にそれら芸術的な即興料理を載せて次々と運んでくるだろう。おまえはそれも何食わぬ顔をして平らげるのだ。俺はなんと誇らしいことだろう。
 翌日から、料理長の特別料理は日々に大きく日々に芸術性を増してゆくに違いない。
 以上をおまえの主な習慣とせよ。
 ほかには何もする必要はない。もっとも、おまえは今のところ酷い船酔いで何も出来ずにいるが。〉

「ずいぶん長いこと船酔いですね塚本さん」
「うん」
「もうかれこれ一週間にもなるでしょうかね?」
「うん。なる」
「大丈夫ですか?」
「うん」
 塚本ヤスエは元気がなかった。

 豪華で退屈な婚礼が終了した翌日から、ゲルハルトはユリスの船酔いを描き続け、ゲルハルト本人は元気いっぱい、孤独の陰りやら孤高のヴェールやらはどこかへ脱ぎ捨てたらしく、船じゅうを怪しげな社交に飛びまわり、たまに船室へ戻ればユリスの枕元でゴシップまがいのあれこれを報告するのだった。

 曰く、カフェでよく出くわす生っ白い男は誰あろう、お忍びで外遊中のプリンス・オブ・どこそこで、それがなにより証拠には純粋培養の高慢と凡庸をとんがった鼻の先にぶらさげており、この船の劇場専属の踊り子・何某の流し目に間もなく陥落するであろう。

 曰く、ハレムごと乗船しているインドのマハラジャだれそれは近頃ひどく憔悴しており、どうやら原因はハレムの構成員のひとり、もっともお気に入りの愛妾が、例の美男のボーイに首ったけ。

 曰く、ハリウッド・スターの超絶的二枚目氏は、目下銀幕界からの逃走を計画中である。それというのも、物凄い人気の原因は演技力よりは美貌のせいだと知って落胆し、そのかわりに自分の中に金融家の才能を発見したためである。

 〈俺の愛に満ちた看病にもかかわらず、おまえの船酔いはいっこうに改善の兆しがない。悪いことに、サイゴンを通過するあたりから急激に暑くなり、熱帯の湿気をはらんだ風が大量の蚊を運んでくる。このあたりの蚊はしつこくて追い払っても追い払っても際限なく襲ってくるのだ。元気だった連中もいくらかげんなりして甲板で伸びている。
 マラッカ海峡を抜けてインド洋へ入ると――――〉

「地図ありませんか、世界地図」
 こんな小屋に世界地図などあるはずはないのだが、ハンスは思わず訊いた。
「ないよ、そんなもん」当然の答えが小屋の隅から聞こえた。塚本ヤスエは筵の上で伸びていた。
「どうもおかしいと思ってたらインド洋に出てしまいましたよ」
「だからなに」
「だって、だって、ハワイかタヒチをめざしてたんじゃないんですか? 太平洋を東に航行中じゃなかったんですか? これじゃ正反対です。今までずっと西に進んでたんです、ここインド洋なんですから」
「うるさいよハン公」塚本ヤスエは弱々しく抗議した。
「返事をもらえなかったこと根に持ってたんでしょうねゲルハルトさん。残念だなあ、ぼくハワイ行きたかったんです」

 〈マラッカ海峡を抜けてインド洋へ入ると、長いうねりにやられてほとんどの乗客が船室に閉じ籠り、晩餐の席に座る者は俺を含めて数人という有様になった。その連中も、絶え間なく襲いかかる吐き気には勝てず、贅を尽くした料理をそっと脇へ退けて、無理に笑顔を作っているのは滑稽だ。無論、例外もいる。この俺だ。〉

 とうとうハンスも影響を受けはじめた。船もはじめてなら船酔いもまたはじめての経験だった。
「こんな状態が……いつまで続くんでしょう……インド洋を出れば……もうすこしましなんでしょうか……それにしても……地図があれば……」
 塚本ヤスエがごろりと寝返りをうち、澱んだ眼でハンスを見て、言った。
「あたしは……そんなもんなしでここまで……来たんだ……あんたも地図なんか……当てに……しないでがん……ばるこったね」

 今夜、書庫で地図帳を探そうかと思ったが、あまり意味はないと気づいた。地図があったところで行きたいところへ行けるわけではない、この船旅はゲルハルトさんの気紛れによって進められているのだから。それより、できるだけ早くインド洋を抜け出さなければ。酷い眩暈と吐き気で文字を追うのも辛かったが、辛いのはぼくだけじゃない、と自分自身に言い聞かせ、ひたすら便箋に目を走らせた。ハワイを夢見たのが遠い昔のことのように思われ、涙ぐんだ。けれど、泣きたいのはぼくだけじゃない、数百人はいると思しき乗客たちはもっともっと泣きたいに違いない。ゲルハルトさんが勝手に航路を変更したために、彼らの旅行計画は台無しになってしまったのだし、その上こんなインド洋くんだりで船酔いに苦しめられているなんて、ほんとうに気の毒だ。彼ら数百人の可哀想な乗客たちのためにも、早くインド洋を読み終えなければ。

 ところで、集落の外れに忽然と奇妙な建物があった。
 若草のしなやかな絨毯と点在する明るい林の風景のなかで、真夏の太陽を受けて燃え上がるピンク色の場違いな建物は、半ば死に絶え半ば馬鹿笑いの真っ最中の様に見えた。
 この辺りでは異例に高い四階か五階建てほどに見えるが、実際にはその半分以上が役立たずの張りぼてで、不均衡な角を生やかした怪物の溶け流れるピンク色の頭部の如きオブジェは醜悪かつ肉感的過ぎて、その下にあるほぼ六角形の構造の真面目さを帳消しにしてしまっていた。
 だが、その六角形の内部では、極めて真摯な情熱が育ちつつあった。
 静止した空気は暑くも寒くもなく、かすかに黴と金属の臭いがした。
 防音が施された部屋には何の音も無かった。
 分厚いガラスの嵌まった丸窓に寄り添う様に立ち、景色の無音のそよぎを眺めていた乱雑な胡麻塩頭が、ふいにこう言った。
「おれら、そろそろ外へ出るべきだと思うんだが、どう?」
 部屋の真ん中に胡坐をかいて座り、絶えず上体を揺すっていたポニーテイルがすかさず答えた。「いいね」少しの間首を傾げて「いいの?」と訊いた。
「うん、いいよ。うん」と、やたらな長身を壁にもたせかけ、乱雑な胡麻塩頭はそのままずるずると床に滑り落ちるにまかせて横ざまに寝そべった。冷たい木の床にくっついた頬に淋しい笑みを浮かべた。
「あんたら、何年もおれにつき合って、ほんとによくやってくれた。だからおれはもういいんだ。もう、ここは、じゅうぶんだ」


 虎松は悠然と畔道を歩いていた。
 最高に良い天気で、最高に暑くて、天使のような気分だった。畔道の両側では作物の生育も上々で、それらは虎松の大勢の家族が育てているのだった。だからといって立ち止まって見るわけではなく、跪いた大勢の臣下の間をゆるゆるとゆく王の様に歩いていた。麦藁帽子をかぶり、新しい手拭いを首にかけていた。古いのは二、三日前に斜面の家のよく泣く青年にやってしまったのだ。
 急いでいるふうには見えなかったが、決して歩みを止めなかった。


 郵便局長は、煌めく赤い自転車に乗って、桃の里郵便局を出発した。
 制帽をきちんとかぶり、制服の釦もすべてきちんと掛け、軽快にペダルを踏み、次第に加速し、年齢に見合わぬ程に加速した。
 遅れるのはいけないと思った。何時に、という待ち合わせではなかったにもかかわらず、遅れるのはいけないと思った。


「外へ出るってことはさ、ねえ尾花さん」蜻蜒淵はポニーテイルを弄びながら言った。「誰かの為にやるってこと? おれたち以外の誰かほかのひとの為に?」
「うん。そうとも言えるな。うん。そういうことだな。誰かほかのひとの為に」
 そう言ってみると俄かに想像が膨らみ、尾花はひょいと体を起こした。
 重く粘りのあるドアが開いて、局長が到着した。
 外界の音が雪崩れこんだ。風や蝉や木々や太陽や花粉や、その他諸々の音が。
「局長さん、おれたち外へ出るんだ。尾花さんがさ、そうしようって」
 局長は眼を丸くし、紅潮した頬をもっと紅潮させ、それから小柄な背を丸めて両手を揉みしだいた。何か言うべきだと思ったとき、虎松が到着した。だからこう言った。
「虎松さん、わたしら外へ出るんですと! 尾花さんがそうしようって」
 虎松は何も言わず麦藁帽子を脱いで弧を描いて胸に当てると、歌いだしたのだった。


     あかーい ひをふく あのやまへ


 蜻蜒淵は小さな倉庫に飛び込んだ。
 局長も「のぼろう のぼろう」と歌いながら後に続いた。


     そこーは 地獄の釜のなか のぞこう のぞこう


 尾花は苦笑して、虎松の豊かなテノールをしばらく聴き、蜻蜒淵が差し出す楽器を受け取った。四人は歌いながら防音の部屋を出た。

 《桃の里集会所》と書かれた門柱のところで局長はちょっとだけ足を止めてアコーディオンのストラップを肩に掛け、制帽を少し斜めに被り直し、制服の釦をひとつだけ外した。胸が痛むほど小粋な姿になった。

 一コーラス終わると蜻蜒淵が、ブラボー! トラージョ! と叫んだ。
 蜻蜒淵の狂おしいマンドリンに、ブラボー! ヤンマーノ! と尾花が声をかけた。
 彼らは興が乗ると愛称で呼び合う習わしだった。
 やや遅れ気味の局長を振り返り、尾花が呼んだ。キョクチョリーノ!
 キョクチョリーノは様々な感謝をこめて応えた。グラッチェ! オッハナ! グラッチェ!


 奇抜なオブジェを戴いた桃の里集会所を考案したのは尾花だった。

 この集落の片隅で自分が確かに生きていた証拠を残したいとの馬鹿げた思いに取り憑かれたのは八年前、四十半ばの働き盛りで問題なく健康でありながら、遠縁の虎松の家に居候の身だった。自分の土地も家もなく、妻も子も親もなかった。

 集会所建設の着想を得た翌日から資金集めに走り回り、一方で気高く文化的で利用価値のある建物を造るための構想を練りに練った。
 町から建築家を引っ張ってきたのがそもそもケチのつきはじめであった。数々の斬新な建築を発表し、人格者でもあると評判の建築家だった。
 尾花の構想を一通り聞いたあと、建築家は言った。
「要するに、チョキですな?」

 尾花は漠然とした不安を抱いた。尾花の案は、大地から生え出たVサインの右手だったのだ。断じてチョキではない。が、同じじゃないかと言われれば、いや違うとは言い難い。曖昧に頷いたために計画は滑り出し、事の早さだけは素晴らしく早く、待ったをかける暇もなく突貫工事が終わった時、大地から生え出ていたのはチョキの右手ですらなかった。Vサインであるにしろチョキであるにしろ、人差し指と中指にあたる突起があまりに寸詰まりであったために、あるいはまた尾花の強い希望でもあった写実的な五枚の美しい爪が省略されてしまったために、ただ奇っ怪で得体の知れないピンク色の何か、に過ぎなかった。

 それでも充分に利用価値のある設備を備えた建物ではあった。一階には完全防音の音楽室――機材倉庫付き――と、小さなロビーがあり、二階は会議室が大小二つあった。一階と二階にそれぞれ二箇所穿たれた丸窓はシャツの手首の釦に見立てたものであり、それは建築家の考案であった。

 建築家は建築家には違いなかったが、数々の斬新な建築を発表し人格者でもあると評判の建築家とは一字違いの名前を持つ別人であった。尾花がそれを知ったのは、すべてが終わり建築家も立ち去った後だったのだ。

 集落の人々は誰一人この集会所を利用しようとはしなかった。

 今にも雪崩れ落ちるかに思える不安定なオブジェに恐れをなして、ただ遠巻きに眺めては囁き合うのだった。

 あれはいったいなんだろう? 塩をぶっかけられたナメクジじゃないか? 桃色のナメクジなんかあるだろうか? ナメクジなら尻尾がもっと長いだろ? 云々。ようやく、チョキじゃないのか? という意見が提出されると必ずやそのあとに、じゃグーはどこ? パーはいずこ? とまぜっ返す声で終了するのであった。 

 空っぽの己が生の証など、尾花には堪え難かった。

 当てずっぽうに三人に声をかけ、音楽室を利用することにした。資金の残り――良心的なことに、建築家は資金を使い果しはしなかったのだ――で当てずっぽうに楽器を買った。当てずっぽうに楽器を割り振った。楽器など触ったこともないような四人だったが、蜻蜒淵は狂ったようにマンドリンにのめり込み、局長はアコーディオンを唯一人の家族のように愛した。虎松は楽器にはさほどの興味を示さなかったが豊かなテノールで天性の歌手だった。尾花は残ったギターを手に取り、淡々と弾いた。四人は極秘に――恥ずかしかったので――音楽をした。五年も音楽をすると、それなりに満足や物足りなさや誇りや冒険心を抱くようになった。密かにグループの名称もつけてみた。ナポリタン・カルテットというのだった。


     ゆこう ゆこう あのやまへ
     ゆこう ゆこう あのやまへ


 午後の最後の輝きのなかで、ピンク色の桃の里集会所が遠く四人を見送って、馬鹿げた大欠伸をしているように見えたのは、入り口の扉が開けっ放しだったせいだろう。

 〈おや? この匂いはなんだろう? 
 人っ子一人いない閑散とした甲板で、俺は鼻をひくつかせた。
「オリーブの花の香りでございます」と背後で声がした。
 振り返ると、白い制服姿も爽やかな船長と事務長が行儀よく並び立ち、二人そろって鼻孔を広げ、微笑みかけているのであった。
「イル・ド・フランス号はただ今インド洋を抜けて地中海に入ったのでございます、パンネンシュティール様」
 船長がそう言う間にも、涼しい風が吹きはじめ、暑く淀んだ空気を一掃した。
 うねる波からも解放された。地中海は青く静かな海だった。
 小躍りして船室へ駆け戻ると、おまえは既に寝台に起き上がり、髪を梳いていた。
「急に気分がよくなって、あたし、何か食べたいわ」〉

 それは本当だった。地中海に入ったとたん、嘘のように温度が下がり、堪え難かった船酔いも消えてしまった。

「地中海ですよ」と塚本ヤスエの背中に声をかけておいて、ハンスは青い風を胸いっぱいに吸い込んだ。オリーブの香りがした。

 塚本ヤスエもさっぱりした顔で起き出し、ハンスの肩越しに手紙を覗き込んだ。食欲を取り戻したユリスが、ひとり大食堂を占拠して、居並ぶ給仕たちが差し出す料理を次から次へと豪快に食べ尽くしてゆくくだりを、咽を鳴らして読んでいるのであった。

 船室に籠りっぱなしだった乗客たちも三々五々姿を現わし、甲板は華やかな賑わいを取り戻した。
 〈船の暮らしというのは退屈なものだ。
 贅沢と優雅と退屈は血縁関係によって結ばれているのだ。
 少し散歩でもしてみたらどうだね? 甲板を行ったり来たり、また行ったり来たり。まるで籠に入れられた二十日鼠のようで嫌だというのなら、どうだねおまえ、少しだけ教養を身につけてみるというのは? 勿論、少しだけだ。そんな生噛りは何の役にも立たないだろうが退屈しのぎにはちょうどいい。
 イル・ド・フランスには様々な種類の講師が雇われて乗っている。音楽講師はもちろん絵画に刺繍に舞踊に料理、おまえには不向きだろうが解剖学だって教えてくれる。
 さあ、どれがいいかね? 選びたまえ。
 返事は例の子供に。〉

 夏の夕暮れは歩みが遅く、ハンスの歩みも遅いのだった。

 塚本さんはどんな教養講座を選ぶだろうか? 舞踊講座かな? あのひと踊るのが好きみたいだし。まさか解剖学じゃないだろうな?……ぼくなら……ぼくなら刺繍かな。いや、塚本さんは何も選ばないのだ。それはぼくが一番よく知っている。ぼくは二十年間返事をくださいと言い続け、塚本さんは一度も返事をくれなかったんだから。ぼくは今、空しく過去の手紙を読んでいるだけなのだ、過去の他人の手紙を――でも、刺繍。刺繍……刺繍。いいかもしれない、刺繍。こう、針でチクチク、色とりどりの糸を、こう……

 とりとめのない考えを弄び、不器用な手つきで架空の糸を刺して、刺して、刺繍というよりは壮大な火山を表現したタペストリー様のものが完成しそうになったとき、不意に視線を感じて振り返った。

 夏の陽も既に落ち、遠く四つの人影が立っていた。じっとハンスを見ていた。否、見ていると感じた。
 しかも、影たちは歌っていた。フニクリ フニクラと歌っていた。
 その歌を、ハンスは聴いたことがなかったが、さっきからずっと気分が昂揚していたのは彼らの歌が聞こえていた所為だったのだと理解した。完成間近の架空のタペストリーを打ち振りながらハンスは歩いた。行進した。フニクリ フニクラ。

 歩みを止めていた影たちも再び歩きだした。行進した。フニクリ フニクラ。

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