『ユリス』二章

 ハンスは跳ね起きた。

 昼寝の最中であったのだが、激しい衝撃と苦痛に見舞われたのだ。例えていえば、全身くまなく夥しい数量の焼き栗と氷の飛礫を浴びせられたかのような。面白いほどに小さい自室の、笑ってしまうほど殺風景な内部のどこにもそんな――焼き栗やら氷の飛礫やらの――痕跡はないと目が認識するのを待つことなく二十六歳の肉体は素早い反応を見せて、四肢は車輪並みの回転で部屋を飛び出し、殺伐たる台所の暗がりをすっ飛び、さらに暗い廊下に到達して九十度の方向転換を成し遂げたばかりでなく、前方およそ七メートル先にあるはずの玄関に向って疾走していた。

 廊下は異様なまでの静寂に満ちている。
 皮膚という皮膚をちりちりと這い昇り這い降りる痛みの小波は、原因が知れない。
 そして暗い。いかにも暗い。

 半日以上も眠り惚けていたのでなければ、まだ午後の早い時間であるはずだ。約四秒前、何かの衝撃によって目覚めたとき、とハンスは思い出す。小さな窓から射し込む午後の陽光が腐りかけた小部屋いっぱいにきらめき踊っていたではないか。

 何かの衝撃によって目覚めたとき、ついでにいっておけば、顔の上に乗せていた読みさしの本を右腕が思いきり投げ飛ばしたことを、ハンスの寝呆けた脳味噌はまるで認識していない。ハンスが小部屋を飛び出したとき、本は六十燭電球の笠の縁をかすめて低い天井に激突し、おなじ勢いで床に叩きつけられたために哀れ木っ端微塵に飛び散ったのだったが。

 それにしても暗い。いかにも暗い。あとおよそ六メートル先にあるはずの玄関扉すら見えない。二本の脚は一致協力して力強く回転し、走る行為にほぼ成功しているが、ふたつの手はてんでんばらばらに行く手を探り、その指先も見えないほどの暗さ。

 暗さの原因はふたつあり、そのひとつは殆ど採光と照明の設備がない廊下であること。では、残るひとつは? ハンスは走りつつ小首を傾げた。その傾いた頭蓋の中には脳味噌が、正体不明の恐怖の泡にまみれながらも微睡みの幸福にすがりついている。残るひとつとは、これか? 未だ完全な覚醒に至っていない脳味噌なのか?

 幸福な脳味噌がようやく健全な目覚めに向って働きはじめ、かすかなふたつの疑問を探り当てた。そのひとつ。殆ど採光と照明の設備がない廊下? 殆ど? 今や五メートル先にあるはずの玄関扉の上には、明かり採りが切られてあったのではなかったか? 朧な記憶が呼び覚まされて、半円形の明かり採りに嵌められた埃っぽい色硝子が、悪趣味極まる暗赤色の色硝子が午後の陽光を血の色に染めて送りつけてくる様子が思い出された。あの厭らしい赤く薄ぼんやりとした明かりはどこにあるのだ? 

 そして、もうひとつ。耳はどうした? ぼくのふたつの耳はどうしたのだ? 

 耳は、有り体にいえば、気絶していた。身を守るために気絶していた。だが俄な呼び出しに我にかえり、憤然として己が任務を果たしはじめた。音! 呼び鈴が鳴っているのだ玄関の! 世界を震撼させるに足るけたたましさで玄関の呼び鈴が鳴っている! 午睡の幸福からハンスを引っ剥がしたのは、この音。全身の皮膚を苛む痛みの原因もこの音であった。頭蓋にいたっては、内に満ちた音の暴力によって粉微塵に打ち砕かれないのが不思議なほどであったにもかかわらず、耳は自棄っぱちな直截さで音を伝え続けた。


 虎松は再び立ち止まり、「まてヨ」と言った。まてヨ、さっき見た何者かは、斜面の家を訪問するつもりかもしれない。なぜなら、村道の途切れる少し手前にはこの家への正式な登り口があるからだ。たぶん、今自分が登りつつある斜面よりはゆるやかで、潅木も雑草もなくて見通しもよく、確か私道のようなものもあったはず。

 私道――虎松をはじめ集落の誰も知らないのだが、私道は《紫の煙の小径》と名付けられて、平らな石の連なりと丹念な草むしりによってことさらに明瞭な曲線を描いており、来る見込みのない訪問者をふんぞり返った玄関扉へ誘おうと待ち受けている。無論、その企てはいつだって虚しい。この家にやってくる極端に数の少ない訪問者たちは皆、《紫の煙の小径》の登り口よりずっと手前から斜面を登りはじめ、猛々しい雑草を掻き分け、潅木を迂回し、生け垣の破れ目をかいくぐり、勝手口の薄っぺらな扉をそっと叩いて来訪を報せるのが常である。玄関からおおっぴらに訪れるには、この家は災厄に関わりがあり過ぎると考えられているのだ。

「でもヨ、まさかナ」と立派な顔を振り、虎松は歩き出した。間もなく生け垣の破れ目に着く。そこを潜ったらいったん笊を下ろして汗を拭きたいものだ、と首にかけた手拭いを見たのだった。


 ハンスは悲鳴を上げながら走っていた。

 呼び鈴は間断も容赦もなく鳴り続けており、加えて今はハンスの目が例の明かり採りから洩れ出す光を認識しはじめたために、俄に恐慌は倍増した。厭らしくも赤黒いその光は、正しく血の色、残虐な場面を想像するのにぴったりの色だった。

 ハンスの記憶に間違いがなければ、少なくともこの二十年間一度も開いたことのない玄関扉が、目前三メートル先に迫っており、そのすぐ向こう側には誰であるか見当もつかない訪問者が指を、おそらくは人差し指を呼び鈴の釦に強く強く押し当てているはずだ。その人差し指から手首に肘、二の腕の筋肉のつき具合、肩の頑丈さと、順次想像をめぐらしてみるものの訪問者の姿はいっかな像を結ぼうとはせず、そもそも訪問者と呼ぶことが妥当な相手かどうか? 呼び鈴を押すのは人間だと思い込んでいたのは間違いではなかったのか? との疑問が生じるに及んで、想像の人差し指は瞬時にして鋭く尖った角に化け、呼び鈴の釦を押し続けているであろう角の生え際に焦茶色の毛がごわつき、その剛毛の中に油っぽくぎらつく目が玄関扉ごしに自分を睨むのを想像するに至って、ハンスはつい右によろめいた。右肩が壁にぶつかったが、すぐさま左手が壁を押して我が身を疾走に引き戻した。だが左手は認識していた、押したのは壁でなく別の扉であったと。紋章めいた厳めしさで彫刻されたロブスターの浮き彫りを確かに触ったのだと。この家の扉という扉のうちで唯一親しみと憧憬の気分を呼び覚ますそれは、書庫の扉であった。ハンスは極めて感じやすい青年であったから、疾走の最中にあっても、書架の並び具合やら古い紙とインクの匂いやら特別あつらえの静寂について懐かしく思い出した。そしてなにより、そこに収められた書物そのものを懐かしんだ。

 書庫への出入りは堅く禁じられていたが、ハンスは主人の目を盗んで忍び入り、一冊づつ台所脇の自室に持ち帰っては読みふけったものだった。概して従順な下僕のような暮らしのなかでこれが唯一の命令違反であった。

 ところで、とハンスは思い出した。あの本を、ぼくはどうしたんだっけ? 昼寝に突入する前に読んでいた本。顔の上に乗せて眠ってしまったのではなかったか? 呼び鈴の暴力に叩き起こされたとき、あの本を、ぼくはどうしたんだっけ? けれども、もういいのだ。もう、すべてがおしまいになるのだから、あと二秒もしたら。この家の狂暴な呼び鈴を押すような狂暴な怪物が、ぼくを生かしておくはずもない。ああ、あと二秒もしたら……。

 書庫との親密な関係がこの青年に及ぼした影響は、精神を強健かつ思慮深くするよりはむしろ、感傷的で水っぽくする傾向に、より貢献していたのだ。

 この家に来てからの二十年と少し、不幸せな境遇を慰む唯一の安らぎの時間、書物と水入らずで過ごす束の間の……でも、でも、この二十年は本当に不幸せだったろうか? 今現在、狂暴な呼び鈴を鳴らし続けている狂暴な怪物に向かって突進しつつある今現在に較べれば、あれは幸せな時代ではなかったか?

 背後に退きつつある書庫の亡霊の中から、ゲーテとシェイクスピアとホフマンが、肖像画そのままの表情でぎこちなく手を振り、別れの挨拶を送って寄越すのを感じて、ハンスは悲しみのあまりについにくずおれた。が、そこはすでに玄関扉の前であったから、反射的に把手に手をかけていた。

 永い年月訪問者に恵まれなかった玄関扉はすっかり拗ねて、後ろ向きな気分のおもむくままに框とのいちゃつきを進行させており、完全に癒着してしまったかと思われたが、それでもハンスは把手を握る手に力を籠めた。人の手の温かみから遠ざかって久しい真鍮製の把手は、扉全体と同じくらいに捻曲がった根性を剥出しにして抗い、強大な摩擦力を味方につけて頑張ったが、呼び鈴の脅威に急き立てられて無我夢中のハンスの力にはおよぶべくもなく、やがて吐き気をもよおす濁音の大盤振舞の果てに負けを認めた。だがその瞬間、回りはじめたかに見えた把手は向う側から大きく引き開けられたのだ。不意をつかれてハンスは前のめりに泳ぎ、暗赤色の薄闇と真っ白な陽光の境目辺りにへたりこんだ。

 目の前三十センチメートル先に一足の赤いビニールサンダルがあった。サンダルの右と左は三十センチメートルの間隔をおいてハンスの方を向いており、それぞれに幾分筋張った足が突っ込まれ細く強靭な脚へと続いていたが、いかにも季節を無視した重苦しいスカートの裾によって唐突に中断され隠蔽された。嵐の海を思わせる乱脈な縞模様とスカートの襞を眼で這い昇ると、足と同じ程度に筋張った拳がふたつ、窄めた日傘を水平につかんでいるのが見えた。そこから遥か上方に尖った顎の先端があり、その上には洞穴めいた鼻孔がふたつ。その両側には可能な限り下向きにでんぐり返された眼球がふたつ、ハンスを見ていた。全体像として、それは塚本ヤスエであった。夏をまるごと、豪華絢爛な裳裾の如く背後に従え、塚本ヤスエが仁王立ちに立っていたのだ。
「塚本さん」とハンスは言ったが、呼び鈴が鳴り止んだことによる突然の静寂にうろたえた耳が盛大な耳鳴りで釣り合いを取ろうと頑張っていたせいで、おのが声は遥か遠くの蟻の呟き程度にしか聞こえなかった。それでも、相手が塚本ヤスエであれば、言うべきことはあるような気がした。「塚本さん、ご存じかどうか……主人ゲルハルトは先日死にましたのです」
「知ってるよ! そんなことはとっくに知ってるよ!」呼び鈴に負けない大音声で塚本ヤスエが答えた。怒りと苛立ちが充分に表現された声量に、さらに威嚇の凄味を加えて続けた。「それともなにかい、あんたまさか、ゲルなんとかが死んだのはあたしのせいだって言うつもりじゃあるまいね? まさか、あるまいね?」

 気弱なハンスはただ「いえ、まさかそのようなことは」と口籠るほかはなく、しかし、その疑いはハンスの胸の中で色濃くなった。なにより塚本ヤスエ本人が――否定的ではあるにしても――口に出しはしたのだから、多少の心当りはあるのだろう。

 だが、塚本ヤスエの声に迷いの色はまるでなく、昂然と言い放った。
「死んだゲルなんとかに用はない! あたしはあんたに用があるんだ」

 這いつくばった姿勢が不当に間の抜けた印象を与えることにようやく思い至って、ハンスは立ち上がった。立ち上がってから訝しんだ。「ぼくに? ご用が?」
「あたしをどうにかしてもらいたい」塚本ヤスエは当然の権利を主張する口調で言った。「あんたは知らないだろうが、あたしは、もう一年と四ヵ月も行方不明なんだ」

 ハンスは膝の埃を払う仕種をしながら哀しんだ。丈の短くなったシャツとズボンから突き出た、二十六歳にしては未発達な四肢がわなないた。陽光に輝く我が身を見れば、払うべき埃もなければ、服そのものが埃以下の粗末さだったのだ。「行方不明とおっしゃっても、塚本さん、あなた、そこに、そうして」
「ここにこうしていても、さ」塚本ヤスエは断固、言い張った。「あたしは行方不明なんだってば。あんたにどうにかしてもらいたい。これについちゃあ、あんたにも責任がある。そうでしょうが。そうでしょうが、ハンちゃん」

 ハンちゃんと呼ばれて、ハンスは驚いた。確かに塚本ヤスエとは毎日のように顔を合わせてはいたが、だからといって互いの名を略称で呼び合うほどに親密ではないはずだし、そもそも、これほど冗舌な塚本ヤスエを見るのははじめてであった。
「あんたの名前、ハンスってんだろ? ハンスだって! どっからどう見ても日本人なのに」言葉通りに、さまざまの角度からハンスを眺めてみせてから、「笑っちゃうよ」と言い、明瞭にハッハッハと笑い「ハンスだって! ハンちゃん、半端者のハンちゃん、ハン公!」と、登場の際の不機嫌さから一転して底意地悪く浮かれはしゃぐ塚本ヤスエの視線は、ハンスの平たい顔面のほぼ中心に位置する丸まっちい鼻の辺りをうろつき、これほど無遠慮な視線にさらされたことはかつてなかったからハンスはひどく狼狽え、狼狽えながらも頭の隅っこで、確かにね、という囁きを聞いていた。確かにね、ぼくはハンスって柄じゃない。そもそもぼくにハンスって名前で呼びかけた人はいなかったのだから、ぼくはハンスとして生きてきたとは言えないんじゃないかしら。目の前でハンちゃんだのハン公だの様々な呼び方でからかっている塚本ヤスエの声を聞きながら、塚本さんがはじめてなのだ、ぼくをハンスと呼んだのは、と思い至り、あんなふうにぼくの名前を意地悪く連呼するのは、もしかしたら塚本さん流の親しみの表現かもしれない、と思った途端に狼狽は急激に激しくなって、思わず口にしたのはひどく間の抜けた言葉だった。「呼び鈴は鳴らさないでいただきたいのです、塚本さん。音が、あのその、あまりにも、つまり」
「鳴らさない!」塚本ヤスエは豪快に遮った。「こんな、ゲルなんとかの家の呼び鈴なんか二度と鳴らすもんか。あたしは金輪際この家には来ないんだから。そのかわりにハンちゃん、あんたがあたしの家へ来るんだ、あしたからね。ああ! 家は駄目だ、父ちゃんと母ちゃんがやかましいことを言うから駄目だ。納屋だ。そうだ、納屋へ来るんだ。午後だよ。毎日だよ。納屋だよ。午後だよ。当分、毎日だよ。わかったね? わかったね?」窄めた日傘の先端でハンスの肩先を一度こづいていきなり回れ右をすると、返事も待たずに《紫の煙の小径》を下っていった。目茶苦茶に日傘を振り回しながら突進するその姿は、しかし一向に遠ざかる様子はなかった。なぜなら、玄関から緩い斜面を下の道に到達するには直線距離にすればたかだか三十メートル下るに過ぎないのだが、通行者を嘲笑うが如き極端かつ無意味な蛇行をくり返す《紫の煙の小径》を、塚本ヤスエは豪胆な歩きっぷりとは不似合いな几帳面さでなぞってゆくからだった。ハンスもまた几帳面にその姿を目で追いながら、人生とかいう名の穴だらけの小舟が剣呑な波を受けて漂い出すのを感じた。


 勝手口の扉を前にして、虎松は汗を拭った。それから扉を叩こうとしたのだが、ふとした疑問が頭を過った。「オットト、あのおひとは死んでしまったんだヨ」と言った。だとすれば、これらの野菜は誰のために持ってきたのか?

 そもそも、あのおひとが死んでいるのを発見したのは虎松自身であった。一週間ほど前に野菜を届けたときのこと、いつものように勝手口を開けてくれた若者が、ちょっと待っててくださいね、と言い、野菜の代価として支払うべき小銭をもらいに主人の居室に行ったのだが、待てど暮らせど戻って来ず、虎松はおずおずと上がり込んだのだった。荒廃した台所を通り抜け、廊下の暗がりをしばらく進んだところに開いた扉があり、若者はそこで伸びていた。虎松も腰を抜かすほど驚いたけれど、朗らかな声で言ったのだった。「あらヨ、死んでおられるんじゃないかヨ」

 あのおひとは椅子に腰かけたまま仰け反って死んでいた。普段は決してお目にかかれない広大な額が、大量の毛髪を帚の如くぶら下げており、白茶気た唇は驚愕の洞穴を開けていた。

 気絶したままの若者を台所脇の小部屋に運び、野菜の笊を傍らに置いたあと、虎松は集落への連絡と葬儀の手配に走ったのであった。
「でもヨ、若者がいるヨ」と太陽の如き笑顔になった。あのおひとが死んでしまったからといって野菜を届けるのをやめるわけにはいかない。長年続けてきた習慣を、突然やめるわけにはいかないのだ。虎松は平手で扉を叩いた、ビタン、ビタンと。


 塚本ヤスエのただならぬ訪問から解放されたハンスは「行方不明のあたしをどうにかしろ」という不可解な要求について冷静な考察をすべく小部屋へ戻った。そして当然ながら、ばらばらに飛び散った書物の残骸を、ささくれ畳の上に発見した。六十燭電球の笠はまだかすかに揺れており、天井の隅には激突の痕跡が、天井板のわずかな隙間となって残っていた。

 残骸――纏まりをもっていたときは鶴屋南北作『桜姫東文章』であったところの残骸――を拾い集め出したころ、ビタン、ビタンという特徴的に粘っこい音が聞こえてきたが心やましくも無視して、壊れた『桜姫』を胸に掻き抱き、静かに泣きはじめた。間もなく感傷の沼地に足を突っ込んだ。だが、どっぷりと感傷に浸るには『桜姫』だけでは足りず、書庫に眠る本たちにも遺漏無く想いを馳せた。厳しく立ち入りを禁じられていた書庫から一冊また一冊と持ち出して読み耽ったこの十数年を、遠い時代を想うように懐かしみ、性懲りもなく涙に暮れた。囚われのぼくを慰めてくれた書物たちよ、さらば! 苦役の日々の合間合間に、束の間とはいえ遥かな時空に連れ出してくれた物語たちよ、さらば! 

 いったんは途絶えていたビタン、ビタンが、愚かしいほどに同じ調子で再開されたが、これも無視した。

 ぼくは明日から塚本さんちの納屋へいくことになるだろう。それがどういうことなのかは、まだわからないけれども、少なくとも、牢獄でもあり安寧の城でもあったこの家は、塚本さんの手によって、ついに開かれてしまったのだ。しかも、あろうことか開きっ放しになってしまったんだ! ハンスは玄関扉の強情さを思い出し、泣くのをいったん中断して舌打ちした。

 砂塵を引き連れて去ってゆく塚本ヤスエの姿が豆粒ほどになるまで見届けたあと、ハンスは、当然のことながら、玄関扉を閉めようとしたのだった。が、扉は頑として動かなかった。現実的な観察眼さえあれば、たまたまそこにあった石ころに扉の下端が噛んでしまったのは一目瞭然だったが、陽光の只中に引きずり出されたモグラの如く神経を痛めつけられたハンスの目には、扉の頑強なる反抗と見えたのだった。

 ビタン、ビタンという音は執拗に続いていた。
 感傷の名残りを溜め息に吐き出して、ハンスは勝手口に出た。
 虎松の来訪を居留守でやり過ごそうとしたには、少しばかり理由があったのだ。
「虎松さん、お渡しするものがないんです」

 ゲルハルトは大笊一杯の見事な野菜の代価としては極端に少ない半端な金額の小銭で購っていたが、そのゲルハルトが死んだ今、ハンスは小銭すら持ってはいなかった。否、二十六年の間一度も自分の金を持ったことがなかった。
「でもヨォ」と、虎松は今来た道を振り返った。今来た道とは、生け垣の破れ目であり、その先に広がる丈高く生い茂る雑草の道なき斜面であった。「また持って帰るのは難儀だもんでヨ。だいたい、持って帰ったことなんかないんでヨ」

 困惑気味の虎松が差し出す大笊を、ハンスは曖昧に受け取った。

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